葵館と徳川夢声

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 また赤坂区内には、活動写真館も三館あった。「葵館」(溜池町)、「万歳館」(赤坂見附外)、「青山館」(青山北町)である。とくに葵館は、若き日の徳川無声が活躍したことでよく知られている。そもそも徳川夢声という芸名は、葵館の弁士になった際、館名にちなんでつけられたものであった。徳川は『夢声自伝』で、葵館について「東京一の葵館に―というと今の青年諸君には不思議であろうが、事実、浅草はいろいろの意味で別として、市内では葵館が一番立派な小屋で、また客種もよかった」と回想している。
 映画評論家の児玉数夫によれば、浅草で封切られた映画を上映する映画館のことを市内映画館と呼んだが、葵館はそのなかでも「例外であり、別格であった」(児玉 一九六七)という。また、キネマ旬報社の社員であった池田照勝も、葵館について「大正七年頃から二三年間のこゝは当時金春館と並んで高級映画館の双璧であつた。何時行つても外人の観客が必ず二三十人はゐたし、内容充実のプログラムは都下随一のものであつた」(池田 一九四〇)と回想している。
 徳川は若くして葵館の大人気の弁士だった。漫画家の小野佐世男は「私の洋画経歴」で、葵館と徳川について次のように回想している。
 
 映画ファンである両親につれられ、当時映画劇場としては立派な赤坂溜池の葵館へと出かけ、赤坂の名妓なぞと二階の特等席でアイス・クリーム(ラムネではありませんぞ)を喰べながら徳川夢声さんの名説明で、「運命の指輪」「鉄の爪」「呪いの家」に心を躍らした想い出は、今もなお心の奥にほのぼのとよみ返って来るではありませんか。当時夢声老は二十何歳の青春の頃であったでしょう、声はすれども姿は見えずなれど周囲の赤坂の名妓連が、「私!夢声におかぼれしているのよ」と、ささやいているのを聞いても、さぞかし女にもてていた頃でありましょう。
 
 ただし、冷暖房のない時代だから、映画を観るのも一苦労だったようだ。多賀も葵館の思い出を記しているが、けっして居心地はよくなかったようである(多賀 二〇一三)。
 
 冬はマントにくるまったまま、それでも満員の人いきれでどうにか凌げたが、夏はたまらない。それで映画が一本、と言ってもその頃の喜劇はほとんど二巻物のドタバタだったが、終ると同時に、葵館では裏側の扉を全部開いて風を入れるのだった。するとその外を大どぶが流れているので、いや応なしに溝の臭いが館内にはいって来る。映画館と大どぶ、これも大正時代を象徴しているように思われてならない。
 
 徳川によれば、東京第一の高級常設館であった葵館は「土曜、日曜、祭日の午後一時開館以外は、一回興行」で、特等席は外国人で充満していたという。
 また、大正四年(一九一五)に大正天皇の御大典が行われた際、イギリス大使館主催により「東京、京都、大阪各地の盛況をカメラに収めた」御大典映画の上映会が行われた。「当日は二階の特等席と一等席は、独墺側をのぞく、列国の使臣およびその家族たちが、キラ星のごとく並んだ」という。
 麻布区に比べれば少ないものの、赤坂区にはアメリカ大使館とスウェーデン公使館があり、外国人も多く住んでいた。そのために欧米文化が身近であったことも、赤坂区の文化的な特徴に大きく影響していただろう。例えば、岡本かの子の「金魚繚乱」のなかで、復一が東京の中学校を卒業した際、真佐子と復一はわざわざ赤坂榎坂町(現在の赤坂一丁目近辺)を訪れ、アメリカ大使館近くの霊南坂にあった「アメリカンベーカリー」で茶を飲んでいるのである。