弁慶橋の受難

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 大きく変化を続ける赤坂区にあっても、東京を代表する景勝地となった弁慶橋の周りは変わらなかった。明治四三年(一九一〇)、木材が腐朽したために架け替えられた際も、コンクリートを用いつつ欄干の擬宝珠を残すなど純江戸式の形状はほぼ変更されていない。弁慶橋は江戸文化の象徴として東京市民から大切に扱われていたのである。
 ところが大正九年(一九二〇)四月、阿部浩東京府知事により、東京市内の住宅不足問題を解消するため、弁慶橋を取り壊して外濠を埋め立てる計画が持ち上がった。この計画が公になると、瞬く間に、赤坂区会や東京市会をはじめ様々な方面より激しい反対運動が起きた。
 例えば、理学博士で京都帝国大学(現在の京都大学)教授や学習院院長などを歴任し、当時、宮内省諸陵頭であった山口鋭之助は「史蹟保存と云ふ意味に於いて許りで無く更に一歩を進めて東京を立派にする、即ち新しき都市の計画上から見ても取壊す処の騒ぎでは無く寧ろ無かつたなら新しく造るべき程の場所である」(『読売新聞』大正九年五月二九日付)として反対した。
 さらに、文学博士の高楠順次郎はじめ東京帝国大学の二〇名の教授も、連名で次のような反対意見を表明している(『読売新聞』大正九年六月六日付)。
 
 史蹟とか名勝とかいふ事を全然離れて見ても外濠一帯の地と水とは市の公園として首都の美観や衛生の上から生活に大切の地域であるされば外濠全体に適当の設備を施して一層公園的にするこそ真の都市計画である然るに今回の埋立計画は目前銖の利を見て市民百年の幸福を無視するものである
 
 このように区会や市会の議員をはじめ、外濠の埋め立てに反対した人々は、弁慶橋の文化的な価値を高く評価し、都市計画における政治の役割は、大金を使ってでもこのような文化的価値の高いものを守ることだと強く主張したのである。
 こうした世論を背景に、東京市会委員会は阿部府知事へ外濠の埋め立て反対の答申書の提出を決定し、さらに床次(とこなみ)竹二郎内務大臣へ弁慶橋を含め外濠を広く公園化するよう求めた意見書も提出した(『読売新聞』大正九年六月八日付)。
 この後の詳細な経緯は不明だが、外濠を公園化する提案は政府に受け入れられたようである。関東大震災を経て、外濠の公園化をめぐる計画は二転三転したが、昭和一一年(一九三六)四月、ようやく「飯田橋駅脇の逓信博物館を起点に中央線に沿つて赤坂見付弁慶橋まで蜿蜒一哩余の外濠風致地帯」(『読売新聞』昭和一一年四月一八日付)が「外濠公園」として開設されることになった。なお、同記事によれば、外濠公園は別名ハイキング公園と名付けられたという。弁慶橋は変わらないが、その周辺は常に新時代の空気の影響を受けて変化し続けたのである。  (後藤 新)