武蔵野の趣を愛した永井荷風は「鐘の声」のなかで、偏奇館に越してきた大正九年(一九二〇)の頃は、芝増上寺の鐘の声(と永井は「響のわたって来る方向から推測し」ていた)が聞こえていたのに、関東大震災の後より「いつからともなく鐘の音は、むかし覚えたことのない響を伝えて来るようになった」と嘆いている。無論、増上寺(?)が鐘をつくのを止めたわけではない。「車の響、風の音、人の声、ラヂオ、飛行機、蓄音器、さまざまの物音に遮られて、滅多にわたくしの耳には達し」なくなったのである。そのなかで、最も永井を悩ましたのはラジオの音だったようで、次の様に記している。
季節と共に風の向も変って、春から夏になると、鄰近処の家の戸や窓があけ放されるので、東南から吹いて来る風につれ、四方に湧起るラヂオの響は、朝早くから夜も初更に至る頃まで、わたくしの家を包囲する。
麻布区の都市化に伴い、増上寺(?)の鐘の音はラジオの音に置き換わりつつあった。永井にとってラジオは都市化を象徴するものだったのだろう。