東京放送局は大正一四年(一九二五)三月一日、芝区新芝町(現在の芝浦三丁目)にあった東京高等工芸学校(現在の東京工業大学附属科学技術高等学校)の図書館の一部を仮設の放送室として開局した。なお、三月一日の時点で逓信省から許可された名義は試験送信に過ぎず、二〇日になってようやく仮放送所を名乗ることができた。
東京放送局は放送所の敷地を探しており、技術的および地理的に第一候補だった愛宕山公園一号地を買収し、放送所の建設に取り掛かった。愛宕山公園には有名な愛宕館と愛宕塔があったが関東大震災によって焼失していたのである。設計は工学博士の内藤多仲(たちゅう)と建築士の木子(きご)七郎に委嘱され、同年六月、愛宕山の新しい名物となった高さ四五メートルの自立式三角鉄塔二基の下に、クリーム色をした三階建て鉄筋コンクリートの放送所が竣工した。放送所には洋楽演奏室、邦楽演奏室、講演室のほか、発電機室や送信機室をはじめ食堂や宿直室に至るまで設けられた。