ラジオ本放送の開始と愛宕山

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 こうして大正一四年(一九二五)七月一二日、ついに本放送が開始された。ラジオの人気はすさまじく、聴取契約者はわずか三か月で一〇万人を突破した。ラジオ熱は全国に広がっており、大正一五年八月二二日、東京、大阪、名古屋の放送局が合併し、社団法人日本放送協会が設立された。それに伴い愛宕山の放送局は同協会の関東支部となり、東京中央放送局と呼ばれるようになった
 なお、全国にわたる放送網を確立するためには、空中線電力を強め、電波を遠くまで飛ばす必要があった。愛宕山の空中線電力は一キロワットに過ぎなかったため、埼玉県北足立郡新郷村(現在の埼玉県川口市)に空中線電力一〇キロワットの放送設備をもつ放送所が新設され、昭和三年(一九二八)四月より放送電波の送信が開始された。こうして愛宕山は番組を製作する演奏所となった。愛宕山の演奏所では、浜口雄幸総理大臣による金解禁の必要を国民に訴える演説(昭和四年八月)や世界的バイオリニストのエフレム・ジンバリストの演奏(昭和五年一〇月)、テノール歌手の藤原義江の帰朝後初の独唱(昭和九年七月)などニュース報道から音楽、芸能、子ども向けの番組に至るまで様々なプログラムを製作したが、昭和一三年一二月に麴町区内幸町の放送会館が竣工すると、愛宕山の製作部門も放送会館に移転した。
 この後、愛宕山は外国からの電波を受信し情報収集する役割を担ったほか、昭和一四年八月には、研究が進められていたテレビ放送の常設の受信所となって一般公開された。昭和一五年四月には、世田谷区の技術研究所(現在のNHK放送技術研究所)との間で、日本初となるテレビドラマ「夕餉(ゆうげ)前」の実験放送を行っている。
 戦後、愛宕山の旧演奏所はGHQに接収され、NHKに返還後の昭和三一年三月、放送博物館として開館した。