「旧芝離宮阯」は、延宝六年(一六七八)老中大久保忠朝が上屋敷に整備し「楽寿園」と称した回遊式庭園で、清水家、紀州徳川家などの所領を経たあと、明治四年(一八七一)に有栖川宮熾仁親王邸、明治八年には英照皇太后の非常御立退所として宮内省買い上げとなり、同九年に芝離宮(図5-2-1-1)となった。以後和風の御殿から庭園越しに品海を望む景勝の地として外国要人の接遇にたびたび使用され、明治二四年には木造二階建ての洋館も竣工した。明治天皇の行幸は有栖川宮邸時代の明治八年五月四日を最初とし、以後明治一二年の前アメリカ大統領グラントや欧州各国の王族訪問などの接遇の際に回を重ね、明治四〇年一二月二〇日の韓国皇太子訪問時まで、計一四回を数えた。しかし外交の舞台となった建物は関東大震災ですべて失われた(庭内には当時の煉瓦基礎や彫刻のある大理石の部材がわずかに残されている)。大正一三年(一九二四)、皇太子御成婚記念として東京市へ下賜され、昭和八年(一九三三)一一月、明治天皇聖蹟として史蹟指定を受けた。
「明治天皇行幸所寺島邸」は、寛文九年(一六六九)より薩摩藩主島津家の別邸で、島津重豪が藩主の時代に庭内の景勝を「亀岡十勝」と名付けた名園があり、維新後、明治政府参議・外務卿を務めた薩摩出身の寺島宗則の邸宅となった。明治一三年(一八八〇)六月九日、この地に明治天皇が行幸し観能したことから、昭和九年(一九三四)一一月、明治天皇聖蹟として史蹟指定を受けた。昭和一二年、荏原製作所創立者の畠山一清が購入して本邸般若苑を構え、茶室などを整備、昭和三九年から畠山記念館として公開された。
寺島邸はわずか一回の行幸であることから考えると、庭園や空間としての歴史的価値が総合的に判断されたと考えられよう。
これら明治天皇の「聖蹟」として指定された史蹟は、占領下の昭和二三年にその指定を一括解除された。現在は芝離宮のみが、地割、石組をよく残す江戸期の庭園として、昭和五四年改めて国の名勝に指定されている。
図5-2-1-1 アメリカ陸軍長官ウィリアム・タフト接遇時の芝離宮、背後に洋館(明治40年9月30日)
宮内庁式部職『外賓接待写真帳』2 宮内庁宮内公文書館所蔵