大正一四年(一九二五)の『東京の史蹟』は、「明治の文化を永遠に物語るべき建築的実蹟は相当に有ろうが、これを史蹟保存として考ふときは自ら局限されて、明治初期に於けるもの数例に尽きるであろう」と書いているように、近代の建築を共有の文化財として保存する意識は関東大震災を経てもなお極めて低かった。しかし、戦災による破壊と、高度経済成長期の急速な都市化に伴い、戦後は明治以降の、とくに洋風建築を文化財として保護する機運が少しずつ醸成されていった。
昭和五五年(一九八〇)、日本建築学会が公表した全国の近代洋風建築の現存状況調査で、港区内から目録に掲載された建築は二三一棟にのぼった(日本建築学会 一九八〇)。その後、昭和六〇〜六二年度に東京都が行った調査では、すでに当時文化財指定されていたものを除き、重要で所有者の同意が得られた、区内の三一件の洋風建築を個別に取り上げており、これが本区史執筆の令和三年(二〇二一)一二月時点では二一件まで減少している(移築を含めない)。東京都の調査報告書が、港区は「質の良い近代洋風建築が数多く残されている」と特筆しているように、減少傾向にあるとはいえ、区内には今なお重要な近代の建造物が多数現存している(東京都教育庁生涯学習部文化課編 一九九一)。
以下では、主なものを、建築当初の用途に沿って概観してみよう。