同様に、平成二五年からJR旧田町車両センター跡地を中心としたおよそ一三ヘクタールの開発事業が動き出し、これと機を同じくした品川駅改良のための山手線・京浜東北線の線路切り替え工事が進められる過程で、平成三一年四月、石垣が出土した。同年一一月の切り替え工事完了後、発掘が進められた結果、これは明治五年(一八七二)に新橋―横浜間の日本初の鉄道が開業される際、海上に線路を敷設するために築かれた鉄道構造物、高輪築堤であり、従来山手線・京浜東北線が走行していた線路下に築堤が現存してきたことが判明した。石垣上部を欠き、陸側の石垣は明治三〇年代の線路の三線化によって改変されているものの、全体として良好な状態での残存が確認された。
これはアジア人が自身の手で敷設したアジア初の鉄道の遺跡であり、近世から近代へと移行する土木建築技術の水準を示す貴重な建築史上の遺跡として世界遺産級とも称されて大きな話題を呼んだ。内部構造も調査され、イギリス人エドモンド・モレルの技術指導のもとで日本人の職人たちが分担して工事を請け負い建設された様子も明らかになってきた。また、この築堤建設に際しては、漁業によって生活する地元民の運動によって、海へと舟を出すための橋が設けられたことが知られていたが(柏原 二〇〇五)、その一つが錦絵に描かれた姿そのままに出土した。さらに信号機跡の出土も続いた。次々と出土した遺跡の重要度と、開発予定の切迫度に鑑みて関係各方面が異例の迅速な対応を重ね、令和三年(二〇二一)九月、従来の国史跡「旧新橋停車場跡」を名称変更し、一体の「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」として史跡に指定されることとなった(図5-2-3-1)。しかし残念ながら出土した築堤の約八八パーセントは記録保存のみの解体を免れることができなかった。
図5-2-3-1 高輪築堤(取り壊された4街区部分 令和3年〈2021〉3月)
撮影 筆者