旧新橋停車場跡および高輪築堤跡

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 近代の歴史が、文書資料などに加えて、考古学によって明らかになりうることが、一般に広く注目されるようになったのは、昭和六一年(一九八六)に廃止された東新橋の旧国鉄汐留駅跡地の再開発に伴う発掘調査によってであろう。約三一ヘクタールの宏大な範囲が平成三~一二年(一九九一~二〇〇〇)に発掘調査の対象となり、仙台藩上屋敷などの近世の遺跡に加え、近代の旧新橋停車場の駅舎や関連施設の遺構が出土し、詳細に調査された。なかでも関心を集めたのは、建物の痕跡だけでなく、汽車土瓶や洋酒瓶、切符をはじめとした利用者の遺物も多数発見されたことであった。長年貨物駅として利用されていたことによって攪乱による損傷が極めて少なく遺構が一括して残存していたこと、バブル景気の影響で売却が地価の高騰を過熱させると懸念され、売却が先送りされたことも功を奏したかたちとなった。現在では一一の街区に一三棟の超高層ビルが建ち並ぶ汐留シオサイトとして生まれ変わっているが、とくに重要な日本初の鉄道駅の遺構部分は、保存のため埋め戻され、その上に明治五年(一八七二)に完成したアメリカ人リチャード・パーキンズ・ブリジェンズ設計の駅舎およびプラットフォームの一部が平成一五年(二〇〇三)に復元された。
 同様に、平成二五年からJR旧田町車両センター跡地を中心としたおよそ一三ヘクタールの開発事業が動き出し、これと機を同じくした品川駅改良のための山手線・京浜東北線の線路切り替え工事が進められる過程で、平成三一年四月、石垣が出土した。同年一一月の切り替え工事完了後、発掘が進められた結果、これは明治五年(一八七二)に新橋―横浜間の日本初の鉄道が開業される際、海上に線路を敷設するために築かれた鉄道構造物、高輪築堤であり、従来山手線・京浜東北線が走行していた線路下に築堤が現存してきたことが判明した。石垣上部を欠き、陸側の石垣は明治三〇年代の線路の三線化によって改変されているものの、全体として良好な状態での残存が確認された。
 これはアジア人が自身の手で敷設したアジア初の鉄道の遺跡であり、近世から近代へと移行する土木建築技術の水準を示す貴重な建築史上の遺跡として世界遺産級とも称されて大きな話題を呼んだ。内部構造も調査され、イギリス人エドモンド・モレルの技術指導のもとで日本人の職人たちが分担して工事を請け負い建設された様子も明らかになってきた。また、この築堤建設に際しては、漁業によって生活する地元民の運動によって、海へと舟を出すための橋が設けられたことが知られていたが(柏原 二〇〇五)、その一つが錦絵に描かれた姿そのままに出土した。さらに信号機跡の出土も続いた。次々と出土した遺跡の重要度と、開発予定の切迫度に鑑みて関係各方面が異例の迅速な対応を重ね、令和三年(二〇二一)九月、従来の国史跡「旧新橋停車場跡」を名称変更し、一体の「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」として史跡に指定されることとなった(図5-2-3-1)。しかし残念ながら出土した築堤の約八八パーセントは記録保存のみの解体を免れることができなかった。
 

図5-2-3-1 高輪築堤(取り壊された4街区部分 令和3年〈2021〉3月)
撮影 筆者