大規模再開発と近代文化財

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 港区は、戦災を蒙ったとはいえ、戦後も細分化された古い住宅区画に木造住宅が密集した地域が多く、しかもそれらは起伏や坂の多い地形から土地整備が進まない状況にあり、とくに防災上大きな問題を抱えていた。そのような地域の「土地の合理的かつ健全な高度利用と都市機能の更新とを図」る(昭和四四年「都市再開発法」第一条)とした市街地再開発事業が、国の主導により推進された。港区では、虎ノ門、六本木、赤坂などを中心として、第一種市街地再開発事業などの大規模な再開発が区内各所で進行することとなった。
 港区内での大規模複合再開発の最初となったのが、赤坂一丁目・六本木一丁目の五・六ヘクタールの土地に、アークヒルズを建設した森ビルが主導した事業であった。昭和四二年(一九六七)の東京都による再開発適地指定によって始動し、計画が発表されると住民の激しい反対が起こり、完成まで一九年を要したが、結果的にはこの種の事業に先鞭をつけたモデルケースとなった。昭和六一年に完工すると、かつて谷町と呼ばれ、二〇メートル以上の高低差があった一帯の特徴ある地形は一新され、狭小な道は是正された。区画内には、三浦友和・山口百恵が結婚式を挙げたことで有名な大正六年(一九一七)築の霊南坂教会(図5-2-3-2、東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾の辰野葛西建築事務所による設計)があったが取り壊され、移転した(現在、その旧所在地には「旧霊南坂教会礼拝堂所在地」の記念碑が建っている)。
 以後、とくに二一世紀に入って平成一四年(二〇〇二)施行の都市再生特別措置法による都市再生緊急整備地域の適用や、国家戦略特別区域計画の認定制度も利用されるなどして、自由度の高い再開発が急速に進行し、戦後も残されていた港区の歴史的・文化的な景観やその面影を感じさせる地形などが劇的な変化を遂げる地域が増え続けている。
 代表例を挙げてみよう。
 ・  旧麻布市兵衛町など六本木一丁目の住宅地三・二ヘクタールの再開発を行った泉ガーデン。平成一四年完工。永井荷風の偏奇館跡地を含む。旧住友家別邸の住友会館の庭園を継承し、住友家所有の美術品を展示する泉屋博古館東京を取り込む。
 ・  旧北日ヶ窪町など六本木六丁目の住宅地一一ヘクタールを開発した六本木ヒルズ。平成一五年完工。一大ブランドイメージを創造し社会現象を巻き起こした(図5-2-3-3、図5-2-3-4)。
 ・  旧赤坂檜町、赤坂九丁目の旧防衛庁檜町庁舎敷地を中心とした東京ミッドタウン。平成一九年完工。これは住宅街を含まず、地形の変化は小さいが、長州藩下屋敷を含む三万年にわたる重層的な遺跡が出土した(港区立港郷土資料館編 二〇〇八)。
 ・  麻布我善坊谷一帯(虎ノ門五丁目・麻布台一丁目・六本木三丁目)八・一ヘクタールにまたがる「虎ノ門・麻布台プロジェクト」(通称麻布台ヒルズ)。令和五年(二〇二三)完工予定。地上六四階、竣工時日本一となる超高層タワーを含む。
 ・  旧芝三田小山町一帯(三田一丁目)における四・五ヘクタールの市街地再開発事業。近世の筑前秋月藩黒田家上屋敷が発掘され、小山町東地区は平成二一年(二〇〇九)、小山町地区は翌二二年に完工。同西地区は令和八年(二〇二六)完工予定。いずれも震災、戦災をくぐり抜けた木造家屋密集地区で、明治・大正期の建築が残存していた。住民のコミュニティを継承した街づくりが図られた。
 歴史の重層性に特徴がある港区において、現在も急速に進められている大規模な開発に伴い、新たな発掘成果や史跡発見の可能性は少なくない。しかしそれらは同時に歴史的景観や土地の文化的な蓄積の喪失を伴うものとなる可能性もまた少なくないのである。歴史的・文化的所産の保存や継承と、現代人の生活の安全性や利便性の向上、地域活性化の両立は難しい課題だ。この困難に今後も直面し続ける港区は、歴史や文化と現代人がいかに共生しながら、豊かな価値を創造しうるかを試されていくことになるといえよう。
   (都倉武之)
 

図5-2-3-2 戦前の麻布区谷町一帯
奥に霊南坂教会がみえる 筆者所蔵

図5-2-3-3 再開発前の六本木六丁目(昭和58年〈1983〉)
撮影 二村高史

図5-2-3-4 再開発後の六本木六丁目(同位置、令和元年〈2019〉)
撮影 二村高史