明治五年(一八七二)一〇月、新橋―横浜間の約二九キロメートルの区間に開通した日本初の鉄道。高輪周辺で線路敷設予定地を所有していた兵部省がその開け渡しを拒否したことから、本芝から高輪海岸を経て品川停車場に至る約二・七キロの区間において、海上に堤を建設して線路を敷くこととなったのが、高輪築堤である。工事は明治三年一〇月から五年九月にかけて行われ、完成の翌月に開業にこぎ着けた。その区間では地元漁民に配慮して四つの橋が架けられ、浜から橋を抜けて海へと舟が出入りできるようになっており、その新しい景観は文明開化を象徴する一シーンとして錦絵にも描かれることとなった。
その後一五〇年の歳月が流れ、当初単線だった線路は、複線化、三線化を経て両側が埋め立てられて陸の一部となり、築堤の痕跡はすでに破壊されたものと考えられていた。しかしこの地域一帯に「品川開発プロジェクト」が動き始めたことで、築堤は二一世紀の東京に再び姿を現した。平成三一年(二〇一九)四月、同時期に進行していた山手線・京浜東北線の線路位置移動の準備過程で、両線の線路下から石垣の存在が確認された。開業前の高輪ゲートウェイ駅を通過するルートへと両線が切り替えられた一一月以降、本格的な発掘調査が開始され、広範囲に築堤の遺構が現存していることが明らかになってきた。JR東日本は令和二年(二〇二〇)八月、港区教育委員会に遺跡発見の届け出を行い、港区教育委員会では八月二六日、国指定史跡「旧新橋停車場跡」と関連の深い「極めて貴重な文化財」であるとして「現地で末永く後世に継承」することを求める要望書を提出した。JR東日本は「高輪築堤調査・保存等検討委員会」を設置し、対応の検討を本格化した。
この発見上の大きな画期となったのが、令和二年一一月二二日付『東京新聞』の一面を飾った記事「『海の上を走る列車』の跡 高輪ゲートウェイ駅の再開発工事で出土」であった。同紙の記者が、たまたま電車の車窓から石垣らしきものが見えていることに関心を持ち、JR東日本や港区教育委員会に問い合わせの上、ヘリコプターから現場を撮影して記事にしたものであった。JR東日本は一二月二日、高輪築堤の出土を正式に公表、七月に「高輪築堤の一部とみられる構造物」を発見し、「一部現地保存および移築保存を通じた公開展示などを検討しています」とした。
品川開発プロジェクト二・三街区には八〇〇メートルにわたる石垣が出土しており、とくに四つ架けられていた橋の一つ、第七橋梁部分は、錦絵そのままの特徴的な姿が残されているとして注目が集まり、対応の行方が焦点となった。
翌年二月一二日、港区教育委員会は再び要望書をJR東日本側に送付。検討委員会で提案されていた、第七橋梁を含む八〇メートルの現地保存案を挙げた上で、少なくともこの見解と「同様のスケールで保存することを求めます」とするものであった。
次いで二月一六日には萩生田文部科学大臣が急遽現地を視察し、築堤を「移設した場合にはその価値が保存されなくなる」「有識者の意見も踏まえながら丁寧に議論頂き、是非、開発と両立させながら、貴重な文化財を現地で保存・公開できるよう検討いただきたい」と踏み込んだ発言をした。この前後に二・三街区の出土状況の一般向け見学会が数回開催された。
一方このとき、四街区には信号機の土台とみられる遺跡を含む三八〇メートルに渡る築堤が検出されていた。しかし検討委員会でこの部分の処遇が初めて議論されたのは三月三日で、「計画建物、事業が不成立となること、計画変更に伴い膨大な時間、費用がかかること」から、JR東日本は四街区の築堤の現地保存は困難との立場を堅持、初めて四街区の見学会が行われてから一一日後の四月二一日、JR東日本は「橋梁部を含む約八〇メートルおよび公園隣接部約四〇メートルの二箇所を現地保存」「信号機土台部を含む約三〇メートルを移築保存」「記録保存箇所については、詳細かつ慎重な調査を行う」の三方針を公表した。
これに対して港区教育委員会は、四街区の信号機土台部について「広く視察の機会と検討の時間を与えぬままの方針決定は、文化財保護に対する誠実さを欠くもので遺憾」との見解を五月一一日付で発表、連続三八〇メートルという「鉄道遺構らしい連続性を備えた様相を呈した貴重な遺構」である四街区の現地保存に向けた再考を求め、さらに今回の開発区域ではなく未発掘の五・六街区で出土が予想されている築堤については、全体の「現地保存」を考慮した開発計画を策定することを求めた。五月二九日には菅内閣総理大臣が萩生田文部科学大臣とともに現地視察を行ったが、JR東日本の方針がこれ以上動くことはなく、当初予定されていた令和六年(二〇二四)の街開きのスケジュールが維持されたかたちとなった。
文部科学省の審議機関である文化審議会は八月二三日、異例の早さで国史跡「旧新橋停車場跡」に追加指定および名称変更を行い、「旧新橋停車場跡及び高輪築堤跡」として現地保存される築堤の二か所の追加を答申(移築保存は史跡指定の対象とならない)、九月一七日付で文部科学省により告示された。
高輪築堤の出現は、現代を生きる我々にとって文化財とはどのような価値を持つのか、という問題を提起した。インターネット上では激しい議論が交わされ、私企業の所有地に対して、一円も払わない第三者からその用途が指図されるのはおかしい、株主にどのように説明するのだ、といった議論も盛んに聞かれた。一方で、港区教育委員会のJR東日本に対する要望書には「遺跡は、公の財産であり、人類共有の歴史資産」(令和三年二月一二日付)と記された。
平成二四年(二〇一二)、長年取り壊しが議論されていた東京駅駅舎(千代田区丸の内)は、創建時の姿に復元再生され、集客の拠点となっている。平成二五年、七〇年ぶりに公開され、地域をつなぐリノベーションストアとして高く評価されている旧万世橋駅(千代田区神田須田町)の再生例などもある。古さや歴史を伝える文化財は、いまや単に好事家の懐古趣味のよすがではない。現代に新たな魅力と豊かさを創出する得難い価値を秘めた源泉であり、最先端のトレンドにさえなりうるのである。 (都倉武之)