三区統合と「港区」の誕生

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明治の初期、港区域の人口は一〇万人程度であったが、帝都東京の中心部として発展し、日露戦争当時の明治三八年(一九〇五)頃には三〇万人を超え、関東大震災前には三七万人を突破していた。なお、今日に至るまで、港区の人口は当時を超えたことがなく、人口のピークが関東大震災前であったという事実は、意外に思われるかもしれない。
震災後も人口は三三万人程度を維持していたが、戦時中の東京大空襲によって、港区域は焦土と化す。被害は港区域のほぼ全域に及び、終戦当時、港区域は面積の約六割を焼失するなど、見渡す限りの焼野原が広がっていた。
終戦から三か月ほどの時点で、港区域の人口は約九万七〇〇〇人と、往時の三分の一以下にまで落ち込んでいた。他方で、終戦後は、復員兵や引き揚げ者なども加わって人口は増加し、物資の不足が深刻化する。そうした中、強制疎開(建物疎開)や空襲による空き地を中心にして、いわゆる闇市が各地に出現し、その象徴の一つが、新橋駅前の闇市であった。
戦後の港区域はそうした混乱の状態から復興へと歩みを進めていくのであるが、地方公共団体としての現在の港区が誕生するのは、終戦から約一年半後の昭和二二年三月である。当時、東京都には三五の区があったが、戦災による人口激減など、自治体としての基盤が大きく損なわれる区がある中で、地方制度の改革によって都から権限が委譲されることになり、その受け皿としてふさわしい区の体制を整える必要があった。
東京都は二二区への再編案をまとめ、そこでは、芝区・麻布区・赤坂区の三区の統合が予定されていた。これが今日の港区となるのであるが、当時、規模が大きく単独での存続を望む芝区、芝区への「吸収合併」を避けたい麻布区、赤坂区と、三区いずれもが三区統合案には反対であった。しかし最終的には、異例ともいえる内務大臣によるあっせんをも経て、三区統合案はようやく合意に至る。なお、新区の名称は、当初から港区と決まっていたわけではなく、城南区、東港区、等々いくつかの候補があって、「港区」とは異なる名称になっていた可能性もあった。
ともあれ、区の再編が完了し、港区を含め、新しい区が誕生した翌月には、第一回目の統一地方選挙が全国各地で実施された。すべての都道府県、そして、すべての市区町村において、住民の代表としての首長と議員が、戦後、新たに有権者となった女性を含む住民から直接選出されることになったのである。港区においても、公選の区長と区議が新たに誕生し、港区の舵取りを任せられた。