復興から高度経済成長へ

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かつて港区には、麻布、赤坂地区を中心に、軍の施設が密集していたが、終戦後、その一部はGHQに接収され、昭和二六年のサンフランシスコ講和条約後は、日米安全保障条約に基づき、米軍が引き続いて使用することになった。陸軍歩兵第一連隊、第三連隊のあった今日の六本木の一帯もそれであり、六本木は米軍との深い関わりのなかで発展していった街といえる。その後、港区内の米軍施設は、昭和三三年までに大半が日本側へ返還され、現在は東京ミッドタウンや国立新美術館となっている。ただし、港区内には、現在もなお返還されていない米軍施設があり、その一部がヘリポート基地として使用されていることなどから、港区はその撤去を求める活動を続けている。
さて、戦後の復興とともに、港区の人口は堅調に回復していくが、人口以上に急増が著しかったのが、「昼間」人口である。昭和一五年当時、「夜間(常住)」人口の約三三万人に対して、昼間人口は四〇万人に迫り、既に帝都東京の中心部としての性格を強めつつあったが、その傾向は、戦後、一層明瞭なものへとなっていく。昼間人口は、戦後一〇年を経過した昭和三〇年には三八万人を超えて戦前の水準に近づきつつあったが、その後も、同三五年には四五万人、同四〇年には五四万人に迫るなど、まさに右肩上がりで増加していった。
昼間人口の急増は、戦後の復興、そして高度経済成長時代を通じて、港区の業務地化・オフィス化が急速に進行したことによる。昭和二〇年代の後半になると、虎ノ門地区や新橋地区などを中心にオフィスビルが次々に建築され、国内屈指のオフィス街、そしてサラリーマンの街が形成されていった。また、昭和電工、東芝、日本電気、本田技研工業、三菱自動車といった大企業が港区内に本社を構え、日本の戦後復興、そして高度経済成長を牽引していった。港区は、千代田区、中央区とともに「都心三区」の一角として、日本経済の管理中枢を担う街としての地歩を固めていくのである。
加えて、港区には大学、高校、中学等、教育・研究機関が多数立地し、そのなかには、多くの学生・生徒が遠方から通学するような学校も少なくなかった。港区は、働く街、学ぶ街として、区外、そして都外からも多くの通勤者や通学者を引きつけながら、発展していった。
当時の港区の特徴として、テレビ局の開局も挙げておきたい。昭和三〇年にTBS(旧ラジオ東京)が赤坂に開局し、その後、テレビ朝日(旧日本教育テレビ・NET)が六本木に、テレビ東京(旧東京12チャンネル)が東京タワーの敷地内に開局した。テレビ局の立地は、テレビが人々の生活に欠かせない存在となっていく中で、港区が情報・文化の発信地として魅力を高めていくことを予見させるものであったといえるだろう。そして、平成に入るとフジテレビが台場に、日本テレビが汐留に移転し、いわゆる民放キー局がすべて港区内に本社を構えることになったのである。