ドーナツ化現象と人口減少

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高度経済成長期においては、都心部から郊外へと人口が流出する、いわゆるドーナツ化現象が進行していく。一般的に、大都市の中心部は土地利用の高度化が進み、業務地化・オフィス化に伴って、郊外へと転出する住民が増えるが、港区においても、転出人口が転入人口を上回る「社会減」による人口減少が、かなり早い段階から進行していったのである。
港区の人口が減少に転じたのは、戦後復興のシンボルともいえる東京タワーが竣工した翌年の昭和三四年であった。当時の人口は二五万六〇〇〇人であり、以後、緩やかにではあるが、人口は減っていった。そして、昭和五〇年代の後半には二〇万人程度で落ち着くのであるが、昭和六〇年代の後半から人口減少が加速し、平成八年(一九九六)には一五万人を割り込んでしまう。
人口の急激な減少の背景には、バブル期の地価高騰もあった。港区の地価は、昭和五〇年代の半ばまでは二〇〇~三〇〇万円を推移していたが(国土交通省「地価公示」の平均坪単価)、昭和五〇年代の後半に入ると大幅な上昇局面に入り、昭和六〇年には一〇〇〇万円、同六一年には二〇〇〇万円を超え、同六三年には最高値の三八〇〇万円に達する。五~六年の間に、港区の地価は一〇倍以上に急騰したのである。その後も、バブル崩壊までの数年間は三七〇〇万円台が続き、昭和の末期から平成の初期にかけて、港区は異常ともいえる地価高騰に見舞われたのである。
こうして、国内有数のオフィス街や商業地区などを抱える街として急速に発展する一方で、人口減少が加速化するという状況のなかで、港区の舵取りは困難を増していく。人口の減少は、区民が住み続けるために必要な住環境や地域コミュニティに深刻な負の影響を及ぼすものでもあり、港区では、これに歯止めをかけることの必要性が広く認識された。当時、定住人口の確保こそが、港区の最大の課題となっていたのである。
港区では、家賃補助、借上げ住宅の供給などの事業を進めるとともに、平成元年には、定住人口確保対策本部を設置し、同三年には「開発事業に係る定住促進指導要綱」を定めた。これは、大規模開発に際しては、延べ面積の10%に相当する面積について、住宅、あるいはスーパーや保育所などの生活利便施設を付置することを求めるものであった。また、区民向け住宅の供給を拡大し、低所得者を対象とする区営住宅を拡充するとともに、中堅所得者を対象とする、区立住宅・特定公共賃貸住宅の整備を急ピッチで進めていった。今日、高輪、赤坂、港南など、区内各地に「シティハイツ〇〇」と冠する集合住宅が一三棟あり、これらが当時から整備が進められた港区の区民向け住宅である。