危機的な状況におかれた港区が行財政改革を本格化させていた頃、港区の人口は平成八年を底にして、再び増加に転じていた。平成二二年には二〇万人、同三〇年には二五万人をそれぞれ回復して、令和二年には二六万人を超えた(平成二五年以降の統計には外国人が含まれるようになっている)。
この人口増加は、「社会増」、そして「自然増」の両面を背景としていた。港区では、昭和三〇年代の後半から、転出人口が転入人口を上回る、社会減が基調となっていたが、平成八年以降、これが逆転して、社会増となる状態が定着していった。定住人口確保のための諸対策が成果をあげたほか、芝浦港南地区を中心に、大型民間マンションの建設が続いたことなども背景にあるといえるだろう。
また、この間、自然増、すなわち出生者数が死亡者数を上回る傾向も定着していった。平成に入ってから二〇年ほどは、港区の合計特殊出生率は「一」に達しておらず、これは全国平均だけでなく、東京都平均をも大きく下回る水準であった。いわゆる「一・五七ショック」(平成元年の合計特殊出生率が「ひのえうま」という特殊要因により過去最低であった昭和四一年を下回り一・五七となったことが判明したときの衝撃)によって、少子化問題に注目が集まり始めたのが平成二年であるが、当時の港区では、既にかなり深刻な少子化が進行していたといえる。
しかし、平成一〇年代の後半から状況は一変し、港区の合計特殊出生率は平成二〇年には一・〇を超え、平成二八年には一・四五と大幅な上昇をみせる。出生数も、平成に入った頃は一〇〇〇人程度で推移していたのが、平成二八年には三〇〇〇人を超えた。合計特殊出生率、出生数ともに、その後は緩やかに低下しているものの、全国的な少子化の趨勢(すうせい)に比べると、近年における港区の動向は際立っている。こうした出生状況の好転は、他地域から転入してきた子育て世代などが牽引しているとみることができよう。
戦後の日本が全体として人口の「増加と減少」を経験しているなかで、港区は、逆に、人口の「減少と増加」を経験しているわけである。多くの自治体は人口減少社会への対応を本格化させているが、港区は、将来的な人口減少への対応を視野に入れつつも、当面する人口増加への対応も課題となってきた。例えば、教育行政の分野である。
港区の公立小学校の児童数は、昭和三〇年の約二万七五〇〇人がピークで、その後は概ね減少傾向が続き、同六二年には一万人を割り込む。減少傾向はさらに続くと見込まれる一方、学校数は二七校のまま変わっていなかったが、平成元年度末に竹芝小学校、芝小学校の統廃合をはじめ、桜田、桜、鞆絵(ともえ)、桜川、神明の各小学校を統合して新たに御成門小学校を設置するなど統廃合を進めてきた結果、同二七年度には区立小学校の数は二七校から一八校に減少したのである。
一万人を割った公立小学校の児童数はその後も減り続け、平成一二年には五二八八人になっていたが、その後の人口の増加は児童数の増加をもたらし、令和四年度には一万人を回復した。児童数が二倍近くに増えて、今度は、小学校が足りないという状況が出現することになったのである。港区では校舎の増改築等によって小学校の学級数を増やしてきたが、加えて、人口増が顕著な芝浦地区の芝浦小学校の教室不足が深刻化するなか、小学校の新設にも踏み切り、令和四年四月、田町駅東口近くに、地上九階建ての芝浜小学校を開校させた。こうして港区立の小学校は、一校増えて一九校となり、学級数は、二〇年前の一・五倍の三三三に増加している。