五〇〇〇人にのぼり、区部全面積の約四分の一、市街地の約半分が焼失するなど、他の戦災都市を遥かに凌ぐ悲惨な状況にあった。そして、復興を目指すにあたっても、単に戦争前の原状回復に努めるというのではなく、新たな民主主義国家にふさわしい政治・文化・経済の中心地として飛躍できるような首都の建設を目指すという高次の目標が打ち立てられた。そのため、都内三五区をどう立て直すかという課題は、首都制度の設計方針に直結する重要なテーマであった。
まず、最も懸案となったのが、人口分布の問題である。既に戦前の時点において三五区間には相当の人口分布の偏りが存在していたが、それが戦災によって一層いびつさを増してしまっていた。表1-1-1は、昭和一五年(一九四〇)一〇月現在で実施された国勢調査における三五区の人口をベースとして、戦後直後の同二〇年一一月時点と区の再編直前である同二二年二月時点での変化をそれぞれ表したものである。ここからまず、戦争によって概ねどの区も人口を減らしているが、区ごとのばらつきが大きくなっていることがわかるだろう。区部全体では約六七七万人いた住民は、昭和二〇年一一月現在で約二七七万人と約41%程度まで減少するに至っていた。元々、昭和七年に東京市が周辺八四町村を併合する前の旧一五区(通番1〜15)は面積が小さい人口密集地域であっただけに、空襲爆撃の被害や疎開転出の影響を強く受けた。
とりわけ、神田から浅草にかけてのいわゆる「下町」地域は、戦前と比べて軒並み90%前後も人口を減らしていた。一方、新二〇区(通番16〜35)では、面積の広い板橋区や世田谷区などは10%程度の減少にとどまっており、葛飾区のように逆に人口を増加させている区もあった。
表1-1-1 35区の戦争前後における人口の変化
東京市政調査会編『都と区の制度的変遷に関する調査研究』(2011)などを参考に作成。( )内の数字は順位