そして、この問題を複雑化させる要因となったのが、戦後直後から始まる都内三五区部への急激な人口流入であった。終戦後、戦地からの引揚者や復員者、転出者などの復帰や雇用を求めた農村人口の流入が始まり、東京をはじめとする各地の都市部では食糧不足や治安の悪化、住宅不足など生活不安が増大していた。そこで、昭和二一年(一九四六)一月に連合国最高司令官総司令部(GHQ)が人口一〇万人以上の都市への転入抑制を指示し、三月には都内三五区と全国二四都市を対象とした「都会地転入抑制緊急措置令」が制定、同二二年一二月にも引き続き三五区部と一三都市を対象とした「都会地転入抑制法」が制定された。
この措置は、三五区では区長が許可権者となり、東京都の指定する二〇数種の業種に従事する者のみ転入を認めるというものであった。ただし、転入許可条件について例外規定が多く、実際にはこの間でも年間一〇〇万人規模の人口流入が起こっていた。当時は、東京に暮らしていながらも配給のための戸籍は近県におく「幽霊人口」という言葉が流行していたほどである(杉並区編 一九八二)。
昭和二〇年一一月から同二二年二月の間の人口異動の内訳を見てみると、戦災のひどかった旧一五区には平均で約二万二〇〇〇人程度の人口増だったのに対し、その周辺の新二〇区には平均で倍近い約四万五〇〇人程度の人口増が発生していたことがわかる。戦争によって人口が激減した都心部地区よりも周辺の方が倍近いスピードで人口増加するという、ドーナツ化現象に似た傾向があった。
加えて考慮しなければならなかったのは、流入人口の多くが経済的に貧しい青年層であった点である。そのため、区ごとの著しい人口分布の差について何ら対策を講じず、従来の区域設定のまま三五区をそれぞれ独立の自治体としていくと、主に財政面で決定的な格差を生じさせかねないという懸念は当時既に自明のものとなっていた。ここから、各区に自治権を認めつつも三五区全体の発展を見据えたグランドデザインを練る上で、人口要件の重要性が増していくこととなる。
港区を構成する三区に関しては、芝区では人口が約一九万人から昭和二〇年一一月時点で六・七万人へ激減したものの同二二年二月時点で約一〇万人まで戻り、麻布区は約九万人だったのが約二万人でその後三万人程度、赤坂区は約五・五万人が九〇〇〇人弱まで減ったものの一・八万人まで戻すという状況であった。旧一五区のなかでは減少幅が比較的少なかったとはいえ、急激な人口異動の渦中にあって、その行末を構想する難しさに苛まれていたであろうことは想像に難くない。