三五区をどのように再編するかという問題は、昭和一八年(一九四三)の東京都制の施行時からの懸案とされていた。しかし、この時は分区・増区すべきとの議論と、二一区程度まで統合すべきとの議論、あるいは警察署管轄区域を統合して区の区域と合致させるべきとの議論などが紛糾し、まとまらなかったという経緯がある(東京都編 一九五四)。戦後、具体的な議論が公の場で始められるのは、昭和二一年九月二三日の東京都区域整理委員会の第一回会合からである。ただ、これと前後して、関係各所で三五区の再編をめぐる様々な構想が浮沈していた。
資料が残る限りでは、終戦まもない昭和二〇年一〇月の段階で、麹町区の区会が区長公選制、区職員の公吏化、区自治権の拡充などとともに、都の区市町村の廃止と三〇区への整理統合などを求めた意見書を決議し、内務省など関係方面に送付していたことが確認できる。ただし、この意見書では具体的な再編案までは提示されていなかった。同様に、昭和二一年二月には三五区の区長で構成される東京都三十五区区長協議会が作成した「区制改革案要綱(案)」でも、「区の数は二十区程度とす」と提案されるに留まっていた。
具体的な再編構想が提案され始めたのは、この三十五区区長協議会の提案が出された後からであった。昭和二一年五月二三日、内務省の出先機関である都市計画東京地方委員会が明らかにした帝都復興計画構想では、都内に緑地帯と大消費中心地区を組み合わせて一一の生活圏を設けるという構想が明らかにされ、これを受けた東京都建設局が「東京復興都市計画概要」の中で三五区を一一区に統合するプランを取りまとめた。ただ、この構想は既存の三五区の区割りとほぼ無関係に境界線を引き直すというものであり、麹町区、日本橋区、京橋区、蒲田区、荏原区、牛込区、下谷区、本所区、深川区、城東区、向島区以外の二四区を二〜三分割させて再編統合するというものであった。港区を構成する三区については、芝区、赤坂区、麻布区すべてが現在の中央区・千代田区、品川区、渋谷区の三方向に分割される構想となっていた。
また、時期は不明だが、逓信省東京逓信局からは、逆に三五区をさらに分割して四六区に増区してほしいとの要望も出されていたようである。具体的には、江戸川区を小石川区・江戸川区、葛飾区を新宿(にいじゅく)区・葛飾区、足立区を城北区・足立区、世田谷区を千歳区・玉川区・世田谷区、大森区を田園調布区・大森区、品川区を大崎区・品川区、豊島区を目白区・豊島区として二〜三分割するという構想であった(田中編 一九五七)。これも建設局の一一区案と同様、行政計画上の便宜を土台としたドラスティックな構想であったが、これ以上深く検討された形跡は見当たらない。