動き出す区域整理委員会

44 ~ 48 / 403ページ
昭和二一年(一九四六)九月二三日、東京都議会議事堂において区域整理委員会第一回委員会が開催された。冒頭、安井長官は委員会に対して次のとおり発言した。

敗戦後の日本を民主的な新しい文化国家に再建し直すには、全国の縮図である東京を何よりも先ず第一に理想的な姿にする必要がある。而(しか)し乍(なが)ら都の基盤となっている各区は戦災によって人的構成と財政的基礎にも大きな変化を来した。一面には地方制度の改正で、自治区の権能は著しく拡大し、その果すべき役割は重大さを加えることとなった。このような情勢下で区の区域を従来のままにして置くことは適当でないと思う。秩序と計画のない復興が再び過去の失敗を繰り返すことがあってはならない。

ポツダム宣言を受諾した我が国はあくまでもこの宣言の忠実な履行者であらねばならぬ。

地方自治を振興し民主的に地方分権の徹底を期することはこれを証明する要素の一つであろう。首都東京の区制の再建こそは列国監視の下にあるだけに、その成否には重大な意義を持っている。

区の地域は、都市計画的見地から共同生活圏を構成する地域を一つに包括し、これが有機的な一体として建設的な自治活動に適するよう整理統合されねばならぬ。これがためには過去の歴史と伝統があって、或は情に於て忍び難い絆もあろうがこの際その行きがかりをすべて精算(ママ)して貰わねばならない。大理想実現のため小異を捨てて大同につき、大乗的に国家百年の大計を樹立すべきである。

本職は以上の理由により此の際区の整理統合を実現いたしたい。速に具体案を作成して答申あらんことを望む。
続いて委員会座長として都議の内田秀五郎(杉並区)が指名され、内田委員長の議事進行によって伊藤次長から委員会への諮問案が提出された後、委員との質疑に入った。この日は区会から新美忠(城東区)と藤野衛(麻布区)、都議会から代田朝義(蒲田区)の質問が行われた。新美委員(城東区)からは三五区の再編に賛意が示され、政治的地盤や伝統にとらわれない理想的な統合案を作成するという観点からは東京都建設局の一一区案は十分根拠があるとの発言があり、藤野委員(麻布区)からは逆に三五区の再編は戦前に選出された議員らによってではなく選挙の洗礼を経た後、あるいは復興を遂げた後に着手すればいいのであり、自治権の拡充と区域の広狭は関係ないのではないか、との発言があった。これに対し、次長からは議員を選挙すべき母体を整備して民主化された新議員を選出することが当局の責務であり、復興に向けた都市計画の概要は既に決定済みであるから復興後まで区再編を待つ必要はないとの回答があった上で、将来的に区は市に近いものとしたいとの構想を持っているため、今後拡充されていく自治権を持つにふさわしい「器」を先行的に整備しておく必要があるとの見解が出された。また、代田委員(蒲田区)からは区統合の具体案は委員会で独自に作成するのか当局の参考案を素材として討議するのかという質問が出され、次長からは参考案は作成済みだがあくまで試案であり、委員会での審議材料として提供するので別途小委員会を立ち上げて研究してもらいたい、との回答があった。
なお、この第一回委員会の四日後である九月二七日に、渉外部長が東京軍政部宛に出した報告書には、予備案として二〇区案が提示されていたことは前述のとおりだが、そこには以下のような文章が添えられていた。

この予備的なプランは、東京都当局において作成されたもので、区域整理委員会の結論を得るまでは一般には公表されませんが、都行政に大きく影響するばかりではなく、非常な政治的影響力を持っております。我々としては、貴下がこの件を部外秘として取り扱われれば、幸甚と考えます(※原文は英文)
しかし、続いて行われた一〇月三日の第二回委員会で当局から提示されたのはこの二〇区案ではなく、二二区案であった(図1-2-2)。この二案では、戦災が最も甚大であった本所区、城東区、深川区、浅草区など「下町」地域の枠組みが異なっている。すなわち、二〇区案では本所区、城東区、深川区は向島区との四区統合、浅草区は下谷区とともに荒川区との三区統合が構想され、二二区案では深川区は城東区と二区統合、本所区は向島区との二区統合、浅草区は下谷区との二区統合で荒川区は単独維持が構想されていた。ちなみに、区域整理委員会の発足前日である七月二八日付の朝日新聞には「区制改正 十五区から二十区までに 人口のでこぼこをならして」との見出しの記事が確認できる。公表直前まで、当局がいかに合意の得られやすそうな枠組みを提示するかをめぐって神経をすり減らしていたかがうかがえる。
さて、第二回委員会では、二二区案が民生局行政課長から提示されたが、これは既に内務省の了解を得たものであるとした上で、この参考案を作成するにあたっての大まかな基準が次のように説明された。
①都の人口を四百万と仮定し、各区人口を二十万とするのが一番よい。
②一区十平方粁(キロメートル)以上を至当とする。
③世論調査によると二十区から二十五区位に分けるのが最良とする声が最も多数である。
④従来のビジネスセンターやアミューズメントセンターである銀座・新宿や築地・木挽町、有楽町・浅草などといった所に出て行かなくとも、その区の中心でこれが済まされるようにすべき。
この参考案について、かねてより練馬地区の板橋区からの独立を主張していた都議の加藤隆太郎(板橋区)から、統合のみに重点が置かれており分割については考慮されていないことを遺憾とする意見が出されたほか、新美委員(城東区)の提案により、小委員会を設置して区再編の必要性に関する議論と再編の具体案についての議論を一括審議すべきかどうかが内田座長から提案され、一括審議に賛成する声が多かったため一九人の小委員会委員が安田長官から指名された。
小委員会委員の内訳は表1-2-2のとおりである。委員一九人のうち都議会代表と区会代表はともに八人で同数、そこに学識経験者三人を加えるという人選であった。都議会と区会のどちらも小委員会内で過半数を得られない絶妙なバランスとなっている。戦前においては、この種の委員会のメンバー構成はほぼ例外なく上位機関である国や都が多数を占めてきたことに鑑みれば、民主化・分権化を旨とするGHQの監督に配慮した人選といえよう。学識経験者三人は、麹町区内で町内会長を務めていた瀬尾栄太郎、元東京市職員で東京商工会議所理事の前田賢次、衆議院議員で地方制度調査会の会長の座にあった中島守利であった。また、この二二区案は三五区のうち二四区を一一区に再編し、残り一一区は単独維持となっていることは既に見てきたが、内田座長を除いて、この単独維持区から小委員会委員は選出されていない。

図1-2-2 参考案として出された22区案

太線は統合の枠組みを示している。下表の人口は昭和22年2月1日現在の数値。面積・人口の数値の出典は、1947年3月4日東京都告示第121号