区の区域の整理統合に関する区会議決について
標記については予てその具体的方策を区域整理委員会に諮問中であったが十二月九日別紙写のように答申があったので都に於ては参考案の二十二区案を採用し実施することに決定したから別紙議案を提案の上速に区会の議決を受けるよう取計らわれたい。
追って議決後は直ちに報告されたい。尚、新設区の区名についての議案は後日別途に送附の予定であるから了知されたい。
この通知に対して各区の反応は実に様々であった。もとより、目黒区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、豊島区、荒川区、足立区、葛飾区、江戸川区、板橋区の一一区については単独維持が答申されていたため、当時これ以上の議論が行われていた形跡は見当たらない(この後、板橋区から練馬地区が独立する運びとなる)。
統合対象とされた二四区について、当初から二二区案に賛意を示していたのは、麹町区、神田区、京橋区、深川区、品川区、大森区、滝野川区、王子区、向島区、城東区の一〇区のみであり、その他の一四区はいずれも反対か消極的な姿勢、あるいは態度を明確にしない戦略をとっていたようである。もちろん、各区の反応が異なるのは、枠組みによって関係者の利害が変わってくるからである。当時の議論を概観する限りにおいて、懸案となっていたのは、「枠組みの是非」だけではなく、「新区の名称選定」や「議員数の大幅減少」、「新庁舎の位置」、そして「旧一五区民という伝統的プライド」などであったと見られる。
この二二区への統合をめぐる全体の議論状況の推移は、各区会が同案についていつの時点で意思表示をしていたかを見ていくとわかりやすい。表1-3-1は各区の二二区案への反応と区会の決定を一覧にしたものである。
他区に先駆けて最初に統合案を可決したのは、墨田区を構成する向島区(本所区との統合)であった。もとより向島区は一二区案や一四区案のような大枠であれば葛飾区との統合が考えられていたが、葛飾区自体が多くの案で単独維持と考えられており、二二区案でも統合対象となっていなかった。したがって、地理的配置から見ても、向島区の選択肢は本所区との統合しかなかった。一方、本所区は浅草区に次いで戦災によって人口を減らしていた区であり、向島区の方が昭和二〇年一一月時点で人口が六倍ほど、昭和二二年二月時点でも三倍ほど多かった。そのため、向島区としてはこの統合で「対等合併」以上のイメージが獲得できることを見込んだであろう。逆に、本所区からすれば、新二〇区である向島区よりも近代化が進んでいた旧一五区であったというプライドや、統合後は向島区域が優先的に開発資源が充当されるであろうから不利な枠組みと考え反対する機運が濃厚であった。むしろ、民生局が示していた深川区や城東区などとの四区統合、次善の策としては人口規模の近い深川区との二区統合を望んでいたようである(墨田区編 一九五九)。本所区内での議論詳細については記録が残っていないが、区会議決が昭和二二年二月一四日まで遅れたのは、このような事情によるものと推測される。
次のタイミングとして、一二月二六日から二七日にかけて七区が一気に統合案を可決している。千代田区を構成する麹町区と神田区は、同じ旧一五区で戦災被害が似たような状況にあり、かねてより二区統合に賛成であったため、いち早く「千代田区」という新区名とともに統合が議決された。品川区と荏原区の統合は、区名をそのまま引き継いだ唯一の統合事例であり、形状的にも人口規模的にも品川区が荏原区を編入するような形であったため、品川区が先取的に受け入れを表明した形となった。荏原区の議決が遅れた理由については、資料が残っていない。
大田区を構成する大森区と蒲田区も、約三倍の人口を擁する大森区の議決が先行したというのは、概ね品川区と同様の構図であったと見られる。江東区を構成する深川区と城東区は、旧一五区と新二〇区という違いはあるが、ともに深刻な戦災状況であったためすんなりと議決したようである。北区を構成する滝野川区と王子区については、王子区が三倍近い人口規模であったため、編入される格好となる滝野川区側では本郷区との統合を望む声も当時はあったようだが(北区役所編 一九七一)、年内の議決で決着している。
表1-3-1 各区の22区案に対する反応と区会の決定