さて、年が明けて昭和二二年(一九四七)に入った頃から、二二区案に反対していた区の動きが目立つようになってくる。新宿区を構成する四谷区・牛込区・淀橋区や、文京区を構成する小石川区と本郷区などは二二区案に賛成ではなかったようだが、区内での動きについては各区から委員を選出して統合条件などについて協議を行ったという以上の資料は発見できなかった。ここでは、中央区を構成する京橋区と日本橋区の動きを確認する。
中央区を構成する動きについても、大枠としては前述の品川区や大田区の構図に近かった。すなわち、京橋区は旧一五区の中では比較的戦災のダメージが少なかった区であり、人口が日本橋区に比べて二倍近くあった。そのこともあってか、京橋区としては二区統合に特段の異存もなく、早々と昭和二二年一月一四日に同案を議決していた。
一方、日本橋区側は区域整理委員会においても区会議長の渡辺委員が一貫して二二区案に反対し、昭和二一年一一月一八日の区会協議会においても二二区案に反対する旨の議決を行っていたほど反対色が鮮明であった。そのため、京橋区議決後の一月三一日に改めて都長官から統合の議決を促す通達が出された後もなかなか議決に至らず、二月八日、二月一三日、二月一七日と断続的に協議が続けられた。この間、区議から区長に対して複数の質問が出されたが、その質問内容が当事者としての「目線」をよく表現している。その概要を挙げれば以下のとおりとなる。
①人口規模の差……京橋区が七万数千、日本橋区が三万数千と聞いているが実際はもっと多いはず、二区の実態人口や国税・都民税の納付額、生活困窮のため都からの扶助を受けている人数の差はどうなっているか。
②伝統消滅の危惧……東京の「センター」であり続けてきた日本橋区が統合によって消滅することで、「日本橋」という地名や長きにわたって培ってきた地域の伝統が残らないのではないか。
③区役所の位置……京橋区は月島先の埋立地の新区編入を希望しているが、編入が行われた場合は区面積が南に延びることになるため新区役所の位置が遠くなり日本橋区住民にとって不便にならないか。
④区役所職員の意向……日本橋区のような優遇された環境で働いている職員がこの統合を喜んでいるのかどうか。
二月二〇日になると、都長官から再び統合の議決を促す通達があった。ここでは選挙期日の関係上、二月二五日までに必ず議決を終了するよう期日が設定されていたため、二月二四日に改めて区会で統合案と区名案の審議が再開された。審議冒頭において、統合案が審議未了になった場合や否決された場合の対応について区議から質問が出され、審議未了の場合は都制施行令に基づき都長官が処分、否決の場合は再議に付される旨の説明がなされた。つまり、区会がどのような方向の結論を出したとしても、最終的には二二区案を強行する道筋が付けられていた。しかし、区会ではこの日統合案の賛否をめぐって議員間で「日本橋区会始まって以来と称される程の激論」が闘わされ(中央区役所編 一九五八)、傍聴人の騒擾などもあって午後一〇時まで延長された末に、賛成一四票・反対一三票の一票差で統合案が議決されるに至った。
なお、この当日の日本橋区会では、三五区再編問題を考えるにあたって重要な指摘がなされている。それは、区内一一町の町会長を務める区議の実感としての「住民の入れ替わり」である。すなわち、終戦後は人口数が復旧しつつあるとはいえ、旧住民がなかなか戻っておらず、区の統合問題にほぼ関心を示さない新規転入者が七割を占めている状況となっていた。そのため、区の方針としては、今後の復興にかかる費用問題を捻出する目的からは東京都の進める統合方針に賛成した方が得策ではないだろうか、との提案が出されていた。日本橋区の旧住民は所得階層的にも上層に位置していたが、その多くは終戦後もまだ食糧難や流通機構が混乱していた都心部には戻らず、疎開先に滞留する傾向が強かったとされている(中央区編 一九八〇)。旧住民の離脱という「自治意識の希薄化」と「納税者の減少」が同時進行する厳しい状況にあって、なお歴史的伝統を重視しようとすることの空虚さを捉えた指摘といえよう。