台東区を構成する浅草区と下谷区は、様々な枠組み案の中でもほぼ二区統合が想定されていたものの、いずれも区内で反対の機運が強かったとされる。下谷区については、区会の動きが顕在化したのは議決の期限とされていた二月二五日の前日であり、それまで区内でどのような議論が展開されていたかは不明である。おそらく、地理的な配置からは本郷区との統合を検討していたかもしれないが、その経緯については資料が残っていない。ただ、二月一七日時点で小石川区と本郷区が統合案を議決したことが一つの契機となって重い腰を上げ始めたとの推測は可能であろう。
実際の動きとしては、二月二四日に区長が区会に二区統合案を上程したものの、翌日二五日の区会では継続審議、二六日に全員委員会において議論の末に反対多数で否決されるに至る。しかし、二月二七日に区域整理委員会小委員会のメンバーでもあった区会議長が「連合軍に呼ばれて色々と勧告を受け」、その翌日二月二八日再議に付された結果、「これは区民の総意に反するものだと信じますけれども、大乗的見地から眺めまして、涙を飲んで原案に賛成しなければならぬ」との賛成動議が出され、満場一致で原案可決となった(台東区役所編 一九六六)。ちなみに、この下谷区の議決が統合二四区で最も遅いものであった。
一方、戦災被害が最も深刻であった浅草区では、既に昭和二一年(一九四六)一一月の段階で区会が二区統合問題の準備調査を開始し、同二二年一月九日には区長が統合案を区会に上程、一月一一日から小委員会を発足させて二月二五日にかけて計一一回の審議が行われていた。この議論の中では、前述の日本橋区のケースと同様、浅草という有数の観光地と歓楽街を有しており、税収的にも十分単独維持が可能であるとの反対論が展開されていたようである。しかし、最終的には小委員会の委員長が一二月の時点で都長官を訪問して統合問題を懇談した際の「連合軍の意向」の重さに鑑みて、賛成せざるを得ないとの結論に至ったようである。議決を決めた二月二五日の委員長の発言の一部を紹介すれば、以下のとおりである。
私共委員は旧臘都長官を訪問して本問題に関し色々と懇談致しました。それは参考資料として占領軍との関係を多少なりとも知りたいと考えたからであります。会議の内容を煎じつめて申しますれば、戦争はまだ済んだのではない。日本は今戦争に敗けて両手を挙げて捕虜になって居るのだ。その片手さえ勝手気儘には下げられないのだ。大きな声一つ出す事さえ許されないのだと言う事を再認識致したのであります。つまり言い換えれば、声なき声をきき得たのであります。
この報告に引き続き採決に入ろうとしたが、浅草区の区会は定員四六人のところ戦争死亡その他事故等によって三二人となっており、当日の出席者は二〇人であったため定数の過半数に達していなかった。しかし、この点については出席議員に了解を得た上で議長裁決により半数以上と認めた上で採決に入り、満場一致で統合案可決となった。