港区の発足

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二月二六日に麻布区と赤坂区が三区統合案を議決した翌日、都長官は内務大臣に対して「東京都の区の統合についての許可申請」を提出し、三月五日の内務省通知をもって許可された。これに伴い都長官は三月一〇日に次のような告諭を都民に対して発出し、三月一五日付で三五区を二二区に改めることとした。
       告諭

来る三月十五日を以て区の整理統合を実施し、従来の三十五区は二十二区に改めます。

なぜ今日区の整理統合をするかと申しますと、戦災によって、各区の人口その他の状態に甚強い差異が生じたためこれを今調整しなければ復興その他の施策実施上支障があることと、他面地方制度の改正によって自治権が拡充せられたため、各区が自治体としての機能を十分に発揮する上に、区政が相当充実した基礎の上に立つことが必要であるからに外なりません。

この趣旨を体せられ、戦禍の跡を力強く復興し、再建日本の首都として理想的文化都市を建設し、都政の一段の暢達を期することは、あらたに発足する二十二区を中軸とする都民各位の厳粛にして光栄ある責務と申さなければなりません。

都民各位と共に、心からこの新発足を祝うと同時に、今後とも区政並びに都政について各位の格段の御協力をお願いする次第であります。
このようにして、昭和二二年(一九四七)三月一五日、港区は、芝区・麻布区・赤坂区の統合によって誕生したのである。なお、この統合成立によって旧区会は廃止され議員は退職することとなったが、四月に予定されていた議員選挙を経て港区議会が成立するまでの暫定的措置として、東京都行政委員会規程に基づき旧区会議員七四人をもって港区行政委員会が組織され、芝区議長であった徳安実蔵が委員長に選出された。行政機構については、三月一五日付で港区役所通則を定め、旧三区の区役所はそれぞれ支所に位置付けられるとともに麻布支所に区長室と総務課・企画課が置かれることとなり、一二月までは麻布支所が港区役所本庁舎の機能を果たした。区長職については、都長官によって日本橋区長心得から港区副区長に任命された中西清太郎が発足から四月の区長選挙まで職務を代行した。    (新垣二郎)