昭和二二年(一九四七)三月、芝区・麻布区・赤坂区の統合により誕生した港区は、その中心に東京タワーを有し、多くのテレビ局やIT企業が本社を構えるビジネスの中心地であるとともに、六本木・青山そしてお台場という都市文化の発信地も有する、まさに「都心中の都心」といえる自治体である。しかし、その煌びやかな外見とは裏腹に、港区は都心特有の様々な問題に直面してきた。本章は、港区政七〇年の中でも特に昭和五〇年代以降を中心に、港区が諸問題に対していかに対応してきたのか、そして令和を迎えた現在の着地点がどこにあるのかについて、政策を軸にみていくものである。
昭和五〇年の特別区制度改革による自治権拡充を受け、「区民本位」の視点に立って基本構想と基本計画を策定した港区であるが、人口の減少、すなわち政策形成において依って立つべき区民そのものが減っていくという事態に直面した。そのため、区民本位の政策を実行するために、まず区民を取り戻すことが最重要課題となり、定住人口確保に向けた様々な施策を講じはじめた。ところがそこでおとずれたのが、バブル崩壊に起因する未曾有の財政危機である。歳入不足を埋めるための基金も底をつきはじめ、区は、定住人口の確保に向けた取組を進めながら、同時に抜本的な行財政改革に取り組まねばならなくなったのである。
この危機的状況を見事に乗り越えた港区は、あらためて「区民本位」の政策づくりを推進しはじめた。そのシンボルとなるのが、区民参画・区民協働を伴う「区役所・支所改革」である。これは、地域に権限と予算を与え、区民参画と区民協働を得ながら、コミュニティの再構築を図るものであり、地方分権の理想的なモデルを追い求めた政策である。
そして改革から一五年余り、区役所と区議会、そして区民が一体となって丁寧に、しかし強力な推進力をもって土壌を耕し、蒔かれた種は、着実に芽吹き、花を咲かせ、実を結んだように思われる。華やかなビジネスと都市文化の下に、区と区民による強固なコミュニティという土台が形成されたのである。
それでは、社会経済の劇的な変化と都市特有の問題に晒されながらも、区と区民が協力してそれを乗り越え、揺るぎのない基礎を築いていった港区政七〇年のあゆみをみていくことにしたい。なお本節の対象期間における港区の行政運営については、『新修港区史』(一九七九)に詳しく記されている。あわせて参照されたい。また本章掲載の表は、出典記載のものを除き、港区の基本構想・基本計画・ホームページから作成した。
(名取良太)