港区の誕生

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第九〇回帝国議会において地方自治法が審議される一方で、昭和二一年(一九四六)七月三〇日、安井誠一郎都長官は、区域の整理統合を審議するための諮問機関として「東京都区域整理委員会」を設置した。そして都は、一区当たりの人口を二〇万人前後、面積を10㎢とする基準に基づき、三五区を二二区に整理統合する案を諮問し、区域整理委員会はそれを適当と認める答申を行った。しかしながら、芝区・麻布区・赤坂区を統合するという都の案に対して、芝区は単独区を主張し、都案に反対の意向を、麻布区・赤坂区も、新区が芝区中心の区となることを危惧し、統合案に難色を示していた。そして三区の議会は、いずれも統合に対して反対の決議を採択する結果となった。そこで安井都長官は、都制施行令第八一条第一項に基づき再議を要請し、芝区が統合を可決、さらに植原内務大臣のあっせんもあり、麻布区と赤坂区は附帯決議付きで可決することとなり、ようやく統合が決定、そして三区協議により新区の名称は「港区」とされた。(名取良太)