戦後すぐに始まった東京の区の自治権拡張運動による要求は一部実現した。それは区長の直接公選の導入、区会の条例制定権などの権限拡張、自立した基礎的な自治体の財政的裏付けとしての課税権と起債権の付与などである。
しかしながら、制定された地方自治法においては、特別区が一般の地方公共団体と比して変則的な扱いがなされるところもあった。この当時の特別区に関する地方自治法の記載は次のとおりである。
第二八一条 都の区は、これを特別区という。
②特別区は、その公共事務及び法律若しくは政令又は都の条例により特別区に属する事務並びに従来法令又は都の条例により都の区に属する事務を処理する。
第二八二条 都は、条例で特別区について必要な規定を設けることができる。
第二八三条 政令で特別の定(さだめ)をするものを除く外(ほか)、第二編中市に関する規定は、特別区にこれを適用する。
これにより、市に関する規定は、特別区にも適用される一方で、第二八二条を根拠として、都の条例による事務への関与を認めるものということが定められた。そのため、港区においても事務の範囲は都の「区制移譲事務条例」をもとに一四項目の事務に限定されることとなった。一四項目とは、①保護救済に関すること、②乳幼児、児童および母性の保護に関すること、③福利厚生に関すること、④国民学校、幼稚園および青年学校の建設に関すること、⑤国民学校、幼稚園および青年学校の学校衛生に関すること、⑥図書館の建設に関すること、⑦社会教育に関すること、⑧体育に関すること、⑨街路照明の管理に関すること、⑩別に指定する公園の管理に関すること、⑪別に指定する緑地の管理に関すること、⑫別に指定する区域の戦災跡地の整理に関すること、⑬保健衛生思想の普及および向上に関すること、⑭保健所の管理に関することである。なお、これらの事項であっても範囲が数区にわたるものや総合的・統一的処理を必要とするものは除かれた(特別区協議会 二〇一八)。
加えて、人事に関しては、法律にあわせて定められた施行令で、都配属職員と呼ばれる規定が設けられ、都の職員を特別区の仕事に従事させることができるようになっていた。そのため、職員のほとんどは都知事の任命下となり、区長の人事権は著しく制限されることとなった。また、それまでは港区においては個別に町会・町内会で雑務等を担う役割を果たす職員の雇用がなされていたが、それらの多くは区固有職員となった。配属職員は身分上、都の吏員でもありながら区が給与の八割の負担を行うこととなっていた。また港区においては、固有職員となった元町会・町内会職員の人数も多かったことからその人件費はその後の港区への財政負担として重くのしかかってくることとなった。
加えて、港区の財政権については非常に限定的なものとなっていた。都が区に付与した課税権は地租付加税および家屋税附加税の一部、区民税、自動車その他の若干の雑種税等であり、その範囲は極めて狭いものであった。
そのため、港区長は他区の区長と共に特別区長会の一員として、また、港区議会は選挙後に自治権拡充委員会を設置して他区議会でも設置された自治権拡充委員会や議長会と連携し、都や関係官庁に対して財政制度の確立に向けた運動を展開していった。
自治権拡充運動は昭和二四年、カール・S・シャウプを団長とする税制使節団による報告(シャウプ勧告)を契機として再燃した。シャウプ勧告が強調した地方自治の強化と市町村優先主義の精神を具体化することを特別区側が要請し、都のみならず国や地方行政調査委員会議(神戸委員会)にまで自治権拡充運動を展開した。この動きは昭和二五年になってもますます激しくなっていった。そこで自治庁の勧奨もあり、都区双方の同数代表と第三者の中立委員による臨時東京都区調整委員会が組織され、協議が行われた。同年九月に中立委員の裁定により、図書館、公園、児童遊園等の多くが区営になったほか、土木事業や民生事業の一部で住民の日常生活に密着するものが区の事務となった。
昭和二六年度も自治権拡充運動は続き、事務移管と財源移管を求める特別区側の主張と都区の一体性の観点から特別区への移管は適当でないとする都の主張は対立した。そこで結果的に一部の事務を区に移し経費の一部増額によって、一応の決着をみた。
一方で朝鮮戦争の勃発、サンフランシスコ講和条約に基づく日本の独立など、日本をめぐる国際情勢に変化が生じていたことを背景に連合国軍総司令部の占領地政策は転換を迎えていた。いわゆる逆コースの時代となる。この時代では警察予備隊の設置だけではなく、地方行政の簡素化、能率化、合理化の推進などが図られ、都区間の制度関係をめぐる議論も新たなステージに入っていく。
なお、昭和二三年一月に港区では井出光治区長のもと、特別区の中で初めて部制による組織編成が行われたが、同二六年一一月に廃止となった。