都は都知事の諮問委員会として昭和三一年(一九五六)に都政調査会を設置し、国の首都制度の構想に併せて検討を始めた。また安井誠一郎は初の公選知事として当選して以来、昭和三四年まで三期一二年を務めたが、三期目の任期満了で次の選挙に出馬せず、都知事の座を去ることとなった。そこで次の都知事選挙では、「区長公選制」を打って出た東龍太郎が当選し、新たな都知事に就任した。そして副知事には自治事務次官、内閣官房副長官を歴任し、後の都知事となる鈴木俊一が就任した。
昭和三〇年代は東京への企業・人口の集中により、都市問題が進行した時代である。急速な社会状況の変化の中で、年を追うごとに都政による事務領域が大きくなっていくという、都制の事務範囲をめぐる課題が問題点として指摘されるようになっていた。いわゆる過密問題である。
そこで昭和三七年には都が設置した都政調査会から「首都制度に関する答申」が出され、同年、国で設置された第八次地方制度調査会でも「首都制度の当面の改革に関する答申」が出された。これらの答申はいずれも、特別区は制限自治区であることを前提としつつも、都から区へ大幅に事務移譲を行い、都は総合的な企画立案、大規模な建設作業、区および市町村の連絡調整等の業務に専念すべきとする趣旨が示されていた。これらはいわゆる東京都の「身軽論」と呼ばれるものであるが、都が大都市行政の一体性を確保するために、都ができる権限を持つことが必要であるというこれまでの考え方から、都が特別区と相互に機能分担をしながら、一つの大都市行政を運営していこうという機能的な考えに変化してきたものが表れたものでもあった。