旧庁舎建替えへ
現在の庁舎は、初めて港区役所本庁舎として建てられた建物である。改築前の旧庁舎は、旧芝区役所の庁舎として関東大震災復興事業の中で計画され、昭和四年(一九二九)八月に竣工した。地上三階地下一階、芝公会堂を附設、正面の望楼には仏塔のように相輪が聳(そび)え、外観は和風、内装はアールデコを感じさせる趣のある建物だった。芝区・麻布区・赤坂区の三区統合の後、昭和二二年一二月二七日、旧麻布区役所に代わって港区の本庁舎となった。以降、都からの事務事業の移管等に伴う組織と職員の増加に対応して何度も増改築を繰り返し、次第に迷路のような建物になっていった。
昭和四五年六月、四期目の港区長に就任した小田清一区長は施政方針演説の中で、「区民に迷惑をかけている上、更に事務量が増大するので庁舎の改築に着手したい」と表明した。議会側にも異論はなかった。区民サービスの向上、情報システムの整備・拡充、文書管理の機械化、組織・執務環境の改善など多くの課題解決が狭隘な庁舎によって阻害されているとの思いがあった。これらを新庁舎建設を契機に一気に解決しようと、新庁舎には大きな期待が込められることとなった。
翌昭和四六年四月、庁舎建設準備担当主査二人が配置された。一人は後に区長となる菅谷眞一であった。担当主査が一年間で作成した「港区本庁舎建設計画資料」には「五年後には本庁舎が完成すべく努力しない限り、区行政のあらゆる分野に支障が生じ、区民の要望に応える体制づくりができない」として昭和四七年庁舎建設本部設置、四八年実施設計、四九年着工、五〇年竣工と早期実現の日程を掲げた。このスケジュールが一〇年以上も遅れることになるとは、当時の担当者には知る由もなかった。
この計画に基づき、翌昭和四七年四月には庁舎建設のために「東京都港区特別施設建設本部条例」を制定、本部長を助役とし、一課二係八人の組織が発足した。組織はできたが新庁舎建設は遅々として進まず、この略称「特建本部」は、総合体育館(スポーツセンター)を昭和五〇年に竣工させた後、五二年に芝プール、五四年にみなと図書館、五五年に芝浦港南支所・婦人会館を建設、最後に新庁舎を竣工させ昭和六二年四月に廃止された。
浜松町交通局用地の買収
最初の課題は、建設用地の選定だった。旧庁舎の敷地は想定する新庁舎の規模には手狭だったからである。昭和四八年三月、浜松町駅前の都交通局用地(現在の日本生命浜松町クレアタワー所在地)の取得について折衝を開始した。当時、交通局は財政再建途上で早急に売却したいとの意向があり、都は港区に時価で払い下げる方針を決めた。昭和四九年第二回臨時区議会で、庁舎用地として面積6232・08㎡ 購入予定価格六七億六〇〇〇万円余の土地購入議案が全会一致で可決された。当時の区の年間予算は二〇〇億円台だった。
用地は購入したが、土地の北西の角にあった東京電力所有地を買い足す必要があり、又区が所有していた南側の六〇〇坪の土地と一体利用するためには交通局の大門庁舎を移転させる必要がある等、直には建設に掛かれない事情が浮かんできた。そのうちオイルショックの影響等で区の財政状況が悪化、建設の見通しが立たない状況となってしまった。
昭和五二年二月になって、当時の川原幸男区長は「庁舎建設は諸般の事情から遅れている。芝公園の日本電建株式会社所有の土地に建てられないか」と議会側に提案した。この土地は、都市計画上公園の網が掛かっていて駐車場としてしか利用されていなかった土地だった。芝公園は公園として守っていくべきだという意見に区長はこの発言をすぐに撤回した。同地は平成一四年(二〇〇二)になって庁舎建設のために購入した交通局用地と交換され、現在港区立芝公園になっている。
旧庁舎地に新庁舎建設へ
昭和五六年七月九日の新庁舎建設特別委員会で川原幸男区長が道路を隔てた総評会館跡地の取得に目途がついたので「現在地に建設することが最も好ましいとの結論に達した」と表明、やっと庁舎建設は用地探しの段階を終え、建設に向かって進むことになった。ローカル紙「自治新報」は「庁舎建設は現在地 元総評会館も買収」と大きく報道した。今の議会棟敷地にあった総評会館が駿河台に移転し、その跡地と建物を手に入れたのはマンション業者だった。区はこの業者と交渉の末、土木部の八ツ山倉庫の土地と交換し、一時分庁舎とした。
さらに周辺のいくつかの土地も取得する必要があった。本庁舎に隣接して本堂と庫裏(くり)があった増上寺の寺中雲晴院は、区画整理によって寺有地が分断されていた。この土地の取得には墓地と一体となって増上寺周辺に移転させることが必須条件だった。昭和五八年三月、旧愛宕中学校の土地の一部との交換で得た芝公園三丁目の土地に移転することで同意を得た。昭和五九年四月、最後に区と分庁舎の隣接地所有者との売買契約が成立、現庁舎の敷地すべてが確保された。この時、既に区役所は田町の仮庁舎に移転し、旧庁舎は解体され、三月には竹中工務店・西松建設等建築JVとの工事請負契約も締結されていた。逼迫したスケジュールの中で庁舎建設事業が進められたのであった。
遺跡調査を経て庁舎竣工へ
設計条件となる新庁舎の基本構想・基本計画までは特建本部が作成し、設計者は株式会社日建設計に決定した。基本設計が昭和五八年七月、実施設計は翌五九年一月に完了した。昭和五九年三月二七日着工、六一年九月三〇日竣工の予定だった。
着工して間もない昭和五九年六月、建築現場から人骨が発見された。郷土資料館の学芸員が江戸時代のものと確認、「遺跡調査団」が組織され、翌月三〇日には行政棟の発掘調査に入った。次いで議会棟建設予定地の調査を実施した。発掘調査により三百数十柱の人骨、水道遺構、多数の銭貨などが出土した。昭和六〇年一〇月五日まで発掘作業は八か月に及び、影響を受けて工期は五か月半延長され、竣工時期は六二年二月一六日となった。
延床約三万三〇〇〇平米の新庁舎は、防災活動拠点としての機能を重視し、十分な耐震性を持ち、外壁は花崗石、各階にバルコニーを巡らせ、景観にも配慮した。設備の上では、大容量の自家発電設備、非常用水として使える2000㎥の蓄熱槽を備えた。災害時の対応だけでなく、雨水利用、全館をめぐる光ファイバー、事務室のフロアダクト等、省エネ、省資源、OA化への対応にも極力配慮した最先端の建物として完成した。昭和六二年三月二日開庁、落成式は三月七日に九階の大会議室で執り行われた。式には当時の鈴木俊一東京都知事が出席、祝辞を述べた。知事を先導したのは、以前港区の企画課長を勤め、後に東京都の筆頭副知事となる福永正通総務局総務部長であった。
槙と枝垂れ梅
昭和六〇年の暑い盛りの日、入院中であった川原区長は突然パジャマ姿で建設現場に訪れた。その頃行政棟敷地は、地中連続壁設置工事が終わって根切りの段階、議会棟は発掘調査で工事にすら着手していなかった。しばらく現場を眺め、無言のまま去っていった区長は、そのひと月ばかり後の九月二四日に逝去した。新庁舎竣工の一年半前であった。
今、庁舎外構の南西の角に樹形の良い羅漢槙(らかんまき)の高木が来庁者を見守っている。生前、川原区長から槙の木を植えよと指示があって植えたものである。その左脇にある春先には毎年清楚な花を付ける枝垂れ梅は、この新庁舎建設という困難な事業を最後まで指揮した故馬田博好特建本部副本部長が選んだものである。 (澤藤盛光)
図2-コラムA-1 新築当時の東京市芝区役所(後の港区役所・昭和4年)