日本の人口動態について確認できたので、次に港区の人口について概説する。港区が誕生した昭和二二年(一九四七)一〇月の人口は一六万四七六二人、世帯は四万六二五二世帯であった。前述したとおり、戦後復興の過程で都市への人口流入が起き、昭和三四年には港区誕生以来最多の二五万六三五五人の人口となった。しかし、一九五〇年代後半からは郊外化が進行したため、港区の人口は長期的な減少傾向が続いた。一方で昼間人口は増加の道をたどった。平成七年(一九九五)の国勢調査では夜間人口は一五万人を割り込み、昼夜間人口比率五・八九となり過去最大の昼夜間人口差が生じた。また平成二二年には港区は東京都の各自治体の中で昼間人口数が最多となった。
昭和六〇年から平成八年にかけて地価の高騰による急激な人口流出に危機感をもった港区は、定住人口減少の背景やこれに付随した課題、定住人口確保の取組や実績などをまとめた「港区定住白書」(平成六年)を策定し、「住み続けられるまち・港区」を目指して区民向け住宅整備、民間住宅供給支援・誘導等の政策を展開した。平成元年には港区定住人口確保対策本部を設置し、同四年に家賃助成制度・借上事業を開始、同六年には都営住宅が区に移管され運営を開始、同七年には区立住宅の供給が開始された。臨海副都心など住宅の開発等も功を奏して一五万人を切った人口も平成八年を境に翌年からは増加傾向を示し、平成二一年には二〇万人台に回復し、同二九年一月には二四万九二四二人となり二五万人に迫る勢いを見せていた。日本の社会全体が人口の減少傾向を示す中、港区人口は増加が進行している。平成二八年には港区の人口の現状と四五年後までの人口動向を示した「港区人口ビジョン」とこれを踏まえた六か年の目標や施策の取組などを示した「港区総合戦略」を「港区まち・ひと・しごと創生総合戦略」として策定した。
港区の年齢三区分別人口の推移をみてみると昭和六〇年以降、全体的に老年人口が増加傾向にあり、年少人口・生産年齢人口の割合が減少傾向であった。平成二年には老年人口が年少人口を上回った。しかし直近の一〇年間(平成一七~二七年)では、老年人口の割合は減少し、年少人口の割合が上昇した。このように最近の港区の年齢三区分別人口の割合は全国的にみられる少子高齢化の傾向と全く逆の傾向を示している。この要因としては出生数と死亡数の差である自然増減の変化が挙げられる。
昭和六二年以降の出生数は平成五年を最小に減少傾向を示し、その後増加傾向に転じている。死亡数は老年人口の増加に伴い概ね一貫した増加傾向にある。出生数と死亡数の差である自然増減は、死亡数のほうが多い自然減から平成一三年以降は出生数のほうが多い自然増に転じ、特に出生数が急増した平成一八年以降は増加幅を増している。合計特殊出生率においても、港区は東京都、全国の推移と同様に下降傾向であった。平成一六年には〇・七八まで落ち込むがその後急上昇し、同二〇年に東京都を上回り、同二八年には全国の一・四四を抜き東京二三区単独トップの一・四五となった。港区の人口は、平成二九年三月、昭和三八年以来五四年ぶりに二五万人を回復した。
港区は歴史的にみても外国公館が多くあったことなどから、多くの外国人が居住していた。令和元年(二〇一九)一二月現在では八四か国の大使館が所在している。外国人人口の推移をみると、平成二一年の二万二三五四人をピークに減少傾向にある。平成二三年三月の東日本大震災および同二四年七月の改正住民基本台帳法の施行の影響によるものと思われるが、同二七年には六年ぶりに増加に転じた。全人口のうち外国人が占める割合は東京都3・0%および区部3・7%と比較すると港区は7・7%(平成二六年比較)と高い数値である。