〔第二項 港区人口の社会動態〕

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続いて港区人口の社会動態についてグラフに基づいて概説する。一節と同様に、昭和三〇年(一九五五)から平成二七年(二〇一五)までの港区人口の社会動態を図3-2-2-1に示した。

図3-2-2-1 港区人口の社会動態

「東京都統計年鑑」「今日の港区」(昭和45年版)および「港区行政資料集」各年版から作成


黒線は港区への転入数(他府県から港区への転入数)を表している。昭和三〇年から平成四年まで多少の増加はあるものの、ほぼ一貫して減少傾向が続いていた。その後は平成二七年までほぼ一貫して増加傾向が続いている。濃いグレーの線は転出数(港区から他府県への転出数)を示している。戦後しばらくは増減を繰り返したものの、昭和四五年の一万七五八七人をピークとして以降は平成一四年まで減少傾向が続く。平成一五年から二七年まで漸増傾向が続いている。
転入数から転出数を引いたものが社会増(薄いグレーの線)となる。戦後は昭和三二年をピークとして減少傾向が続き、昭和四五年には転出数が転入数を上回る社会減を経験する。昭和四六年にわずかに社会増となるものの、翌四七年からは一時的に社会増に転じた時期もあるが基本的に社会減が平成七年まで続く。平成八年以降は平成二七年現在まで社会増が続いている。戦後から今日までの概観は、上記のとおりである。以下では、一節で用いた四つの時代区分ごとに描いたグラフを用いて、詳細に検討する。

図3-2-2-2 高度経済成長期における港区人口の社会動態

「東京都統計年鑑」「今日の港区」(昭和45年版)および「港区行政資料集」各年版から作成


まず、高度経済成長期の港区人口の社会動態を図3-2-2-2に示した。転入数は昭和三〇年の二万一四六九人をピークとして昭和四五年までほぼ一貫して減少していた。転出数は昭和三三年の一万四二〇五人を底としてその後は昭和三七年まで増加。その後は多少の増減はあるものの昭和四二年まで一貫して減少する。そして同年以降再び増加を示していた。一方、社会動態は戦後から昭和三五年までは毎年約五〇〇〇人の社会増を示していた。それ以降は、社会増分が減少傾向となり昭和四二年から四五年までの間に、社会減を経験することとなった。このように、昭和三五年までは毎年約五〇〇〇人のペースで人口が増加していたものの、その後、経済低成長期に入るまでに人口増加のペースが落ちていったことがわかる。

図3-2-2-3 経済低成長期における港区人口の社会動態

「東京都統計年鑑」および「港区行政資料集」各年版から作成


経済低成長期の港区人口の社会動態は、図3-2-2-3に示したとおりであった。転入数は昭和四六年をピークとして同五一年まで減少し、その後は約一万人で推移していた。転出数は昭和四八年をピークとして同六〇年まで一貫して減少傾向にあった。そのため、昭和四七年から五四年まで一貫して社会減を経験することとなった。昭和五五年以降、社会増分はほぼゼロで推移することとなった。
このように経済低成長期の前半は、毎年一万人以上は人口が流入していたにもかかわらず、それを上回る人口が転出していたため、人口減を経験していた。特に人口減少が顕著であったのは、芝地区と麻布、赤坂地区であった。JRの主要駅である新橋駅、浜松町駅などを抱える芝地区は、商業施設および業務立地化が進み住宅の供給が増加しなかったことによると考えられる。
経済低成長期の後半は、社会増分はほぼゼロで推移した。

図3-2-2-4 バブル経済・崩壊期における港区人口の社会動態

「東京都統計年鑑」および「港区行政資料集」各年版から作成


バブル経済・崩壊期の港区人口の社会動態は、図3-2-2-4に示したとおりであった。一九八〇年代後半、世界経済がグローバルに結びつくようになり、東京はグローバルシティとして発展することを期待され、東京の発展が日本経済を牽引すると考える政策が、国と都によってなされた。港区内は業務地化が進行し、地価が高騰した。このため、中堅サラリーマンが区内で住宅を取得することが困難となった。多様な業務の集積により、昼間人口は大幅に増加するものの、人口や住宅の減少により、「基礎自治体としての存続にかかわる危機に直面した」(「港区住宅基本計画」平成五年)。
そのため区は、平成五年を初年度とし、同一二年を目標最終年次とした港区住宅基本計画を発表し、住宅の確保と人口の増加を目指した。具体的には、住宅市街地整備ゾーンを設定し、地域特性に応じた住宅施策を展開した。赤坂地区の東側と芝地区は、主に住宅・業務協調ゾーンとして設定され、活発な業務地化の動きを住宅供給に結びつけるとともに、住機能の拡充・再生が目指された。赤坂地区の西側と麻布地区は主に住宅地維持ゾーンとして設定され、従来の低容積による住環境を維持するとともに、細街路の整備等を図り、居住空間の確保が目指された。高輪地区は概ね西側が住宅地維持ゾーンに、東側が住宅・業務協調ゾーンに設定された。芝浦・港南地区は住機能確保業務複合ゾーンに設定され、業務ビルの建設に併せて住宅の供給を誘導するとともに生活利便施設の整備を促進することが目指された。
これらの政策が奏功し、昭和六二年には社会増が二〇〇〇人減であったものが、その後一貫して増加し、平成八年以降はプラスに転じた。転入数も平成五年以降増加に転じ同一二年まで増加することとなった。

図3-2-2-5 平成不況期における港区人口の社会動態

「東京都統計年鑑」および「港区行政資料集」各年版から作成


平成不況期の港区人口の社会動態は、図3-2-2-5に示したとおりであった。転入数は平成一四年から一九年にかけて急激に増加した。これは、臨海副都心開発や芝浦港南地区の倉庫街の跡地などに大型民間マンションが建設され、子育て層が転入するなど転入ラッシュが生じたからである。その後、この大型開発による人口流入は沈静化し、リーマンショックの影響を受けて平成二一年にかけて転入数は減少するものの、その後も同二七年まで増加傾向にあった。
一方、転出数は平成一三年から二七年まで増加していた。