古川の南岸の沖積低地に位置する。近世に入ると、慶長六年(一六〇一)の東海道の新路線決定とともに、芝集落と金杉集落がその往還に沿う市街として発展していった。芝の地名は近世で優勢となって範囲を広げ、北は新橋・外堀の線まで、南は高輪村であった二本榎あたりまで包摂するようになった。そのため、元来の芝であるという意味を込めて「本芝」という呼称が定着したようである。現四丁目の本芝公園付近は以前、東京湾の小魚を水揚げする雑魚場(ざこば)と呼ばれ、新鮮さで「江戸前」の名の起源をなし、また人情噺(にんじょうばなし)「芝浜」の舞台ともなった。本芝の南西に続く田町は金杉や芝と起源を異にし、字義どおり、東海道の開通とともに海辺低地の水田が市街地化したものとされ、上高輪村に属した地域である。
明治二年(一八六九)に金杉一〜四丁目、川口町、仲町等に町名町域が整理され、同五年には武家地・寺社地を統合して三田四国町、新堀町などが新設された。明治初期においては、幕末焼討事件のあった薩摩藩邸跡を中心に三〜五丁目にまたがって勧業寮や三田育種場が設けられ、その後は大小工場が増加したが、戦後には住宅の混在が減少し、主要道路に面してビル化が進行した。現在でも、表通りは大企業の本社ビルが立ち並ぶビジネス街となっているが、路地裏には住宅街が広がる形となっている。