三田四〜五丁目は高輪地区に属するが、ここでまとめて扱う。武蔵野丘陵淀橋面の東辺に属する丘陵部が古川の浸食谷によって南北に長く残された地域で、西に低地も含んだ古くから開けた土地である。三田の名称は、元は御田であって、神領・皇室領の稲田とされたために尊称がついたという説が有力である。この尊称の「御」がいつ「三」に変化したかは諸説あり、足立郡箕田や勝沼城主の三田氏、麻布永坂の三田屋敷・三田稲荷、目黒区三田との続きであったことなどの影響が指摘されている。
近世には、芝南新門前一〜二丁目各代地、久保三田町、三田久保町、三田竜原寺門前、三田当光寺門前、三田一〜四丁目、神宮寺門前、三田常教寺門前、芝伊皿子明下町、芝田町四〜九丁目、芝通新町、芝伊皿子町、芝伊皿子台町、芝大円寺門前、三田功運寺門前、三田台町一〜二丁目、三田台町一丁目続赤坂一ツ木町代地、三田台裏町、三田泉福院門前、三田随応寺門前、上高輪宝徳寺門前、芝伊皿子七軒町、芝伊皿子寺町、三田豊岡町、三田豊岡町続麻布善福寺門前代地、麻布永松町、麻布南日ケ窪(ひがくぼ)町代地などの諸町が形成されていった。近世以降に開創・来転された寺院は相当数にのぼっており、江戸でも有数の寺院街をなしていたことがわかる。概ね、三田小山と台地上にやや以前からの集落があって、近世に東海道沿い、伊皿子、古川沿岸という順に開けていったとみられる。
明治二年(一八六九)に各代地、門前などが統合されて町名が整理された。現四丁目の寺院街はそのまま続いているが、境内地は次第に民家や商店などが表側に建築されてきた。一丁目東部には済生会病院や官舎、学校など大きな施設が多く、二丁目も慶應義塾や大使館などが建ち並ぶ。一丁目西部や五丁目は古川沿岸の工業地帯として中小企業が集まっている。戦後は全体的にマンションの増加が顕著であり、国道一五号沿いのビジネスビル化も急ピッチで進んだ。現在、三田一丁目西部や田町駅、三田駅付近では再開発が行われているが、それ以外の地域は落ち着いた住宅街のままとなっている。また、三田一丁目と二丁目間の区道補助第七号線の拡幅整備は完了に近づいている。