東の大部分は低地にあり、西北部に突出する部分は麻布台地斜面の裾となり、日ケ窪末端の谷地形にかかっている土地である。麻布十番の地名の由来は、延宝三年(一六七五)に幕府による古川改修工事の際の割当工区が十番目であったという説や、元禄一一年(一六九八)に徳川綱吉の慰安施設である白金御殿普請の際に人足の十番目の組を出して番組印の幟を立てて運んだからという別説などもある。
明治二年(一八六九)には麻布新網町や山元町を中心に町名を整理、同五年には山元町や坂下町などに武家地・寺社地の統合が進められた。明治四四年には古川沿岸に麻布新広尾町を設定し、ここが近代には神楽坂と並ぶ山手の繁華街としての代表的な町域として繁栄し、花街も大正年間に新たに生まれた。
戦後は一〜二丁目界隈の商店を中心に復興していったが、盛り場的要素よりも大規模の商店街として繁栄してきた。住居表示が実施される前の昭和三七年(一九六二)の区画整理で里俗称として使われていた麻布十番の町名が採用されて新たに三丁目を設定、同五三年の住居表示に際しては古川沿岸の町域の一体性を考慮し、四丁目を設定した。また、麻布宮下町の残部を一丁目に加えた。
長らく鉄道駅がない地区であったため、商店街では地域住民が主たる客層となっていたが、昭和五九年にディスコ「マハラジャ」が開店する頃から徐々に繁華街との様相を呈していくようになる。平成一二年(二〇〇〇)には地下鉄南北線と大江戸線が乗り入れる麻布十番駅が開業し、六本木地区と連続した国際色豊かな街としての地位を獲得するに至る。