麻布台地の西側で、笄川の谷を東西に分かれて挟む形の町域となっている。
明治維新後は町屋と寺社地を除いて大名邸地はほとんど畑となったが、やがて宅地となり、麻布の大邸宅の延長となった様子がうかがえる。明治二年(一八六九)には長谷寺門前と渋谷御掃除町を統合して笄町が設定され、観明院門前と妙善寺門前は桜田町へ統合、三軒家町は従来のまま置かれた。明治五年には、これらの町に武家地や寺社地が統合されるとともに、一部分が新設の霞町にも編入されていった。なお、麻布区成立後の明治一九年や同二四年に周辺の村を統合していった模様である。
笄川沿いの北部には明治後期から商店や寄席が若干あったが、発電所もあるような土地柄で郊外の景況に近かった。戦後には六本木の外周の拡大とともに急速な発展を遂げていった。とりわけバブル景気に沸く頃はディスコやナイトクラブが立ち並び、明け方まで若者が集う繁華街となった。