東流する古川の右岸にあたり、北半の一・三・五丁目は小氾濫原とみられる低平な土地で、南半の二・四・六丁目は白金の台上へかかる斜面となっている。集落の成立は一七世紀後半以後とみられ、江戸周辺拡大に伴い漸次町屋化していったとされる。明治に至るまでは町域の約半分が五〜六丁目を中心に村地として残り、白金村や今里村の入会地(いりあいち)となっていた。
明治二年(一八六九)には代地が老増(おいます)町へ統合、門前町は白金錦町となり、同五年には旧武家地に白金志田町を設定、荏原郡に白金村・今里村・白金錦町・白金上三光町・白金下三光町を残し、古川の河川敷に麻布広尾町枝郷を設定した。明治一二年に白金錦町・白金上三光町・白金下三光町は白金村へ合併されたが、同二二年には白金村が芝区に編入され、当該地域は白金三光町となった。
明治中頃までは原野田畑が多い地域であったがその後住宅化し、一・三・五丁目は中小工場や小住宅が増えて古川沿岸工業地帯の一翼を形成した。二・四・六丁目は台地が邸宅化したのと対照的な変化であった。
戦後は、台地上に高級マンションが建築されるようになり、一〜二丁目東辺に桜田通りが拡幅・新設されるなどの変化に伴って一帯の建築物が更新される様子もあるものの、奇数丁目と偶数丁目の町況の違いは継続しており、区内の代表的な二様の町を形成している。また、この町域には長らく鉄道駅がなかったが、平成一二年(二〇〇〇)には高輪地区との境界部に地下鉄三田線と南北線が乗り入れる白金高輪駅が開業し、利便性が向上することとなった。