既に述べてきたように、明治維新後の土地管理は、明治五年(一八七二)に地券制度が導入されて以降、土地の売買および地租の徴収はこの制度を基として運用されることとなった。また、同年に制定された戸籍法では当初、家屋に番号をつけることによって戸籍簿が作成されていた(戸番主義)が、明治三一年の改正によってこの戸番主義から地番主義へと転換し戦後まで至った。ただし、法律的にはこの地番が国の制度として認められたことはなく、あくまで慣行的に地番が住所を示す「番地」として利用されている状況に鑑みて、制度に準じたものとして扱われてきたに過ぎなかった。
この地番主義の弊害としてどのようなものがあったのか。住居表示実施にあたって、港区役所総務課が発行する「区のお知らせ」昭和三七年七月二二日号が当時の状況をよく表していると考えられるので紹介しておこう。
住居の表わし方が変ります
―町区域、町名も整理―
映画の「有楽町○番地」などと〝番地〟というものは私たちの日常生活に密接なつながりをもっています。
これは私たちが番地により住所や場所を表しているからです。ところが従来この番地のつけ方が大変に不統一で、一番地の隣りが百番地、その裏は五十番地だというような例が少くありません。
また港区内には同じ番地の所に何百世帯もの多くの家があり、一軒の家をさがすのがむずかしい町がたくさんあり、みなさんもこの苦労はよく経験されることでしょう。
このように番地により住所や場所を表示していることにより、日ごろ大変な不便を感じているのは、みなさんはもちろんのこと、区役所、郵便局、電報局、運送会社、デパート、ガス・水道関係の集金人等とたくさんあり、区役所では大切な選挙の入場券の配布に苦労をし郵便やさんが家をさがしている間に書留や小包を盗まれたとか、また郵便、電報の配達不能、遅延のため就職や入学の機会を失った、あるいは親の葬式に間にあわなかったとか笑えない深刻な事実もよく耳にします。
全く日本の都市における番地は、ジャングルのように判りにくく、ある外国人は〝住所の狩〟(アドレッセン・ヤークト)だといったそうです。
つまり番地をたよりにして、たずねる獲物(家)はこの辺だろうと探してもない。ではこっちが、いやまた違った。あっちだこっちだという有様がちょうど狩をしているようだといったものでしょう。
同様に、「区のお知らせ」昭和三七年一二月一八日号は住居表示特集号と題され、四面にわたって住居表示事業の詳細が説明されている。そこでは、港区内の町名や番地の混乱状態の一例として、次のような例が挙げられている。
読みにくい町名 長い町名は整理 不動産登記、戸籍には無関係
同一町名 まぎらわしい町名
赤坂新町、赤坂新坂町、芝新堀町、芝新堀河岸、麻布新堀町、麻布仲町、赤坂中ノ町、本芝材木町、麻布材木町、芝横新町、芝通新町、赤坂田町、芝田町、芝七軒町、赤坂青山六軒町など赤坂という名称を付けた町名だけでも二十二もあります。
長い町名
港区赤坂青山権田原町、赤坂青山高樹町、芝西久保明舟町
読みにくい町名
港区麻布笄町(こうかいちょう)、麻布狸穴町(まみあなちょう)、芝葺手町(ふきでちょう)、赤坂葵町(あおいちょう)
欠番のある町
愛宕町二丁目、二十四番から八十五番までが欠番
一つの番地に枝番が多い町
三田四国町二番地が一号〜四百十三号まで、赤坂福吉町一番地が一号〜三百十三号まで、二本榎西町二番地が一号〜二百七十三号まで、白金三光町二百七十三番地が一号〜二百八十四号までと多数あります。
同一番地に多くの家屋がある町
高輪南町三十番地に約三百世帯、三田四国町二番地に約七百七十世帯、二本榎西町二番地に約三百世帯、赤坂福吉町一番地に約三百世帯
町の境界が複雑な町
三田松坂町、三田南寺町、三田豊岡町、麻布市兵衛町、麻布谷町、麻布今井町等多数あります。
このように、地番自体の数が大きくなり過ぎたり、同一地番に多数の住宅が建っていたり多数の符号や枝番が生じていたりしていたことが問題視されていたようである。そもそも、課税便宜上の符号として整備されてきた地番は、所有者が同じであれば土地自体の広狭は問題にならない。そのため、土地の一部譲渡や合筆などが長い年月をかけて繰り返されてきた結果、枝番や欠番が入り混じる複雑な地番が形成されることとなったのである。