住居表示未実施に至る経緯

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住居表示の実施に反対する運動は当時、全国各地で発生しており、東京二三区内だけでも大田区や杉並区、豊島区などを相手取って住民団体が複数の訴訟を提起していた。このような動きを受けて、前述のように住居表示に関する法律は昭和四二年(一九六七)七月に一部改正が行われたが、東京都もこの法改正を受けて実施基準を変更し、町の規模については面積や戸数などの数量基準を示さず「街区数があまり多くなったり、少なくなったりしないように適当な規模に定める」とした。なお、昭和四三年三月には港区もこの東京都の基準変更に沿って実施基準を同様の文言に改めた。
麻布永坂町と麻布狸穴町の住居表示に関して、具体的な動きが出てきたのは、既に港区全体面積の90%以上で住居表示を終えていた昭和四六年の頃からである。同年八月から九月にかけて、港区では麻布台一〜三丁目の住居表示の実施を見込んで地区内の各町会への説明会や住民説明会など各種懇談会を実施、昭和四七年二月には公示予告の全地区配布を完了させていた。
一方、この住居表示実施の報に接した麻布永坂町・麻布狸穴町の住民の中において、著名人が中心となった反対運動が展開され始める。ここでは、町名変更に住民意思が反映されるという前提に立って狸穴町会会長名で署名を募る文書が回覧され、狸穴町一三〇世帯のうち八〇世帯が住居表示に反対していることを受けて、昭和四六年一〇月二八日に町名変更を撤回するよう港区長や区議会議員、区役所担当課(住居表示課)などへと文書を出した。
これ以降、同町の反対運動については昭和四七年四月一一日までで計八回、書面上でのやりとりが行われた。その中では、区役所側からは基本的に特定の地域だけ住居表示の実施を見合わすことはできず、法的手続きに則って区の素案決定後は住居表示協議会の決定を経て原案を公示し区議会に諮るという手続きの説明や、当該二町を単独で町丁目を作成するのは東京都の指導の下で作成された各区共通の実施基準に合致しないなどの説明が繰り返された。住居表示に関して住民側が敗訴している訴訟の判決全文が同封されたこともあったようである。しかし、町名変更反対派の住民はこのような説明で納得せず、議論はかみ合わないまま堂々巡りに陥っていた。
そして、この交渉がまとまらないまま、昭和四七年五月一〇日に麻布台一〜三丁目の住居表示に関する原案が公示された。この原案では麻布狸穴町は麻布台二丁目と三丁目に分けられ、麻布永坂町は麻布狸穴町の一部と麻布飯倉片町とともに麻布台三丁目の一角を構成することとされた。
この前後において反対派住民は交渉相手を住居表示課長から区長に切り替えたが、書面のやりとりではらちが明かないとの認識に至ったのか、昭和四七年六月一日付でこの住居表示に関する二つの変更請求が、麻布狸穴町住民六七人の署名と麻布永坂町住民一一八人の署名によって出された。ここで、麻布狸穴町と麻布永坂町の両町が同じ問題で区と争っていることが判明することとなり、両町の有志で「由緒ある町名を守る私たちの会」が結成される運びとなった。
この変更請求の扱いについては、区議会も頭を悩ましたようである。昭和四七年六月二〇日の第二定例会にかけられて以降、同四八年の第二定例会まで約一年以上も継続審議が続き、ようやく九月二八日の第三定例会で次のような修正議案が議決された。

一部修正(原案のうち麻布台三丁目は削除する)のうえ意見を付して議案議決

意見:麻布台一、二丁目は原案どおり可決することとし、三丁目の地区については、区の原案は住居表示の実施基準に照らし最も合理的になされていると思われるので、この基準にそって次回定例会までに決定するよう極力理事者の方で話し合い理解を得るよう努力すること。
この議決により、麻布狸穴町と麻布永坂町の住居表示については何もしなくても現状維持となり、逆に区側が第四定例会までに反対住民を説得する道筋を示さなければならなくなった。そこで区側は一〇月から翌昭和四九年一月にかけて町名変更反対派の住民らを訪問して説得を試みるも、成案を得ることはできなかった。
逆に、昭和四九年三月には、「由緒ある町名を守る私たちの会」は代理人として三人の弁護士を立て、区長に四二問にも及ぶ公開質問状を送付して区の方針を明確にさせるとともに、区長公選制が復活する同五〇年四月では候補者宛に由緒ある町名を守るか否かを迫る質問状を出したりするなど、攻勢をかけていた。
この膠着状態のあおりを最も受けていたのは、住居表示に賛意を示しながらも、長らく「放置」されてきた麻布飯倉片町であったといえよう。飯倉片町の町会長は昭和五〇年六月頃の区との協議において、同町単独で麻布台三丁目の住居表示を一刻も早く実施するよう要請していた。実際、昭和五一年七月には同町単独で麻布台三丁目の住居表示実施が決定し、一〇月に施行されている。
この間、区も粘り強く交渉を継続していたが、区側としてはこの二町の統合と新町名の設定という線が区側の妥協できる限界であったようで、再び堂々巡りの議論が続いていたようである。
なお、昭和五二年一二月一〇日付の毎日新聞は、この港区の住居表示問題について右のように報じていた。

港区では九月一日に虎ノ門、芝西久保地域を虎ノ門に統合、来年一月一日から実施の芝愛宕町付近の「愛宕一、二丁目」への整理で九七%強の新住居表示実施率となった。これで当初、区内に百四十二の「町」と二百三十二の「丁目」があったのが二十八の「町」と百六の「丁目」にまで整理された。最終的には二十五の「町」と百三の「丁目」にするのが目標。

それには「麻布十番」地区の地番を整理するとともに「麻布狸穴町」「麻布永坂町」をひとつの町名に整理統合しようという区の案が出された。ところが、この十余年、全住民こぞって町名変更には反対、というのがこの地域。当初から住民を無視し、法に疑問を持った経済学者、木内信胤さん(狸穴在住)や「千年近い由緒ある町名を抹殺することに絶対反対」という松山善三・高峰秀子夫妻(永坂在住)が中心。四十七年に区が、狸穴、永坂、飯倉片町の三町を統合、「麻布台三丁目」にする、との構想を打ち出したとき、松山さんをリーダーに三町住民が猛反対に出た。「由緒ある町名を守る私たちの会」を結成、その由緒とは何か、を史料で明示、「いかに歴史の香りを消す愚行であるか」を〝証明〟していった。(中略)

こうして三町の同時統合は無理とみた区は、賛成・反対の二派に分かれていた飯倉片町地区だけをまず説得、同地区だけで「麻布台三丁目」と変更したのは五十一年のこと。これで源頼朝の時にすでに使われ(「吾妻鑑」)、島崎藤村がそこに住んで著した「飯倉だより」で知られる「飯倉」という町は消えた。

「三町統合して麻布台三丁目に」との原案が実現できなかった区は、その後はいささか破れかぶれ気味。「狸穴(まみあな)という難しい字をなくすため」との理由で、狸穴、永坂合わせて「麻布台四丁目」にといい出したかと思えば、それでも住民が折れそうにないとみると、「狸穴永坂でも永坂狸穴でもいい。好きな方に(住民側で)統合してほしい」(小林国泰・住居表示課長)と言い出す始末。

「永坂」と「狸穴」がそれぞれ単独町名で残らなければいいというのだ。現永坂が「永坂狸穴一丁目」、現狸穴が「永坂狸穴二丁目」と、長く複雑になっても「単独町名は残さない」という区の方針に合致するという発想だ。
住居表示という技術合理的な手法の導入により、住民一般の暮らしは確実に便利で豊かになったことは疑いがない。しかし、これは何も住居表示に限った問題ではないが、国由来の方針を地方自治の現場において過度に貫徹させようとすると、不必要な住民と区行政との軋轢や住民間の分断をうむ危険性を常に秘めている。住民への丁寧な広報広聴体制の整備や、住民目線も織り込んだ柔軟な対応が、住民自治の涵養にとって重要であることを物語る一例といえよう。  (新垣二郎)