港区の面積は、令和三年(二〇二一)一月一日現在20・37㎢(参考値)である。参考値というのは港区と中央区、千代田区と中央区との境界の一部が未確定なので、国土地理院がこの三区の合計の面積を42・24㎢とし、三区の面積をそれぞれ参考値として示しているからで、これが唯一の公式な数字である。
昭和二二年(一九四七)の三区統合以前の各区の面積は、それぞれの区史によると、芝区10・113㎢、麻布区3・853㎢、赤坂区4・30㎢であり、この合計は18・226㎢である。統合後、港区の発行物で確認できる最も古い面積の数字は17・20㎢(「港区勢概要」昭和二六年三月一五日発行)で、その内訳は、芝8・61㎢、麻布4・29㎢、赤坂4・30㎢とある。赤坂以外は統合以前とかなり相違があるが、理由は不明である。翌年版の港区勢概要では、19・77㎢(建設省地理調査所による)と2・5㎢も増えている。その後、19・01㎢(「港区勢要覧」昭和三三年・昭和三〇年建設省地理調査所)、19・73㎢(「港区勢概要」昭和三一年、昭和三一年一二月三一日現在)を経て、昭和三五年発行の『港区史』では19・01㎢(建設省地理調査所)に戻り、この数字がしばらくの間基礎となった。これらの増減は実際に増減すべき事実があったからではないと思われる。
実際に面積の変化が生じ、区境が変更されたことが二度あった。昭和三〇年、港区に属していた旧第四台場(芝品川沖四番地)が埋め立てにより品川区に編入された。地積は五八一五坪九三であった。もう一度は、昭和三九年の東京オリンピック・パラリンピック後、外国記者用の宿舎を分譲することになった時のことである。この住宅の住所を明確にして入居者の不便がないよう都は翌年三月、港・新宿・渋谷区間の区境の変更の同意を各区に求めた。境界は同年四月一日に変更され、港区の面積は差し引き六二八・三九坪増加した。
その他の変化は埋立地の編入によるものである。昭和三五年三月から平成八年(一九九六)三月まで九回、計一一区画の土地が議会の議決を経て新たに港区の土地となった。増加した面積の総計は、約1・2059㎢である。ただし、品川埠頭埋立地(現在の港南五丁目)を編入した際、港区の内水面となった運河の面積0・09㎢を含んでいる。港区の内水面を埋め立てた場合も新たに生じた土地として確認の議決をしている例が数回ある。
増加面積の中では、台場一、二丁目(編入前は東京港一三号埋立地その一の一部)の0・512㎢が最大である。この地は、昭和四六年頃、埋め立て整地が終わり、インフラが整備され本格利用の時にはいずれかの区に編入されることが予想された。港区は、周辺の海域は古くから港区の区域であり、港南五丁目だった第三台場から地続きなので、当然港区に帰属すべきものとして、区議会ともども関係機関に強く主張した。他区も黙ってはいなかった。品川区はこの海域が江戸時代以来品川浦だったこと、東京港トンネルでつながっていることなどを挙げ、江東区は永年二三区の最終処分場になり、夢の島・新夢の島へ毎日数千台のゴミ収集車が区内を走り続けてきたという区民の犠牲の歴史から、埋立地の帰属を主張した。話し合いは一〇年以上続いたが結論が出ず、昭和五七年四月、三区は地方自治法に基づく自治紛争調停を都知事に申請した。調停により港区には北側部分の約51 ha(一三号地その一その二全体の約17%)が帰属した。これにより港区の面積は19・995㎢へ増加し、昭和六二年三月の海岸一、二丁目先の埋立地の編入で20・027㎢と20㎢を超えた。
面積は各自治体が測るのではなく、現在では国土交通省国土地理院が測定して全国の都道府県、市町村の面積として公表している。戦前は地図や三角点、水準点は、参謀本部陸地測量部が司っていた。この事務は戦後内務省に移り、建設省地理調査所を経て昭和三五年以降国土地理院の所管となった。実際の港区域の変化以外の面積変更の原因には国土地理院の修正がある。昭和六三年国土地理院は、新たに測定した全国の市区町村別面積を公表、これにより港区の面積は20・22㎢(三区面積を按分)となった。平成二年と三年にも修正があり、それぞれ20・29㎢、20・31㎢と変更された。区はその都度、これに編入面積を加えて時々の面積としてきた。平成二六年、国土地理院の測定方法の変更があり、港区の面積は20・37㎢となった。平成八年以降は埋立地の編入もなく、当分この値が続くと思われる。(澤藤盛光)