東京都では、昭和二〇年(一九四五)九月から東京都次長を委員長とした東京都町会運営委員会を設置し、今後の町会のあり方について議論を始めていた。三五区内では空襲被害や疎開などの影響を受けて町会自体が消滅しているケースも少なくなく、町会をどこまで再生させられるか、どのような役割を実際に担わせられるかは戦後復興の実務を考えていく上で重要な問題であった。
しかし、前述のように昭和二二年一月の段階で町会の解散・廃止が決まったことにより、町会運営委員会における議論は、町会の再生や性格をどうするかという点から、町会廃止後の地域行政をどのように維持していくかという点へと重点が移っていった。当時はさしあたり、従来の町会事務所を区の出張所に切り替えて事務職員を嘱託職員とする案や、配給事務や調査事務を隣組程度の単位で世話人に委嘱する案などが考えられていたようである。
そして、政令第一五号による厳しい立法措置が取られたことを受けて、東京都では「町会部落会等に関する解散、就職禁止その他の行為の制限に関する件について」という通知を区長宛に出し、町会の区域ごとに設けていた区役所・支所の連絡事務所を廃止した。そして各区は、六月一日付けで人口一万五〇〇〇人、面積四㎢を設置基準として改めて出張所を統合・設置し、連絡事務所で処理していた行政事務を扱うとともに、嘱託の身分としていた町会事務所の事務員を区職員の身分に改めて配置し直した。また、従前のように東京都や区役所からの伝達事項を回覧板によって周知させていた方式を改め、掲示板などに掲示して周知させる方式に順次切り替えていった。
この当時の港区における出張所の設置にかかる議論については資料が残っていないが、出張所が芝地区に七か所、麻布地区に三か所、赤坂地区に二か所設置されたことに鑑みれば、出張所の設置には前述の人口基準が用いられたと推測される。なお、周辺区では出張所の用地選定や確保、建設費の調達などにおいて相当の困難があったとされ、都や区の財政負担だけではなく、各出張所管内の住民による寄附などの経済的援助によって整備されたところも少なくないとされる。