アジア・太平洋戦争の敗戦後、日本社会は大きな混乱の中で復興を目指すこととなった。東京の中心に位置する港区もその例外ではない。顕著にそのことが表れているのが人口で、国勢調査によれば戦前(昭和一五年〈一九四〇〉)時点で約三三万六〇〇〇人だったものが昭和二〇年には約九万六〇〇〇人にまで減少していた。その後、昭和二五年に約二一万六〇〇〇人、同三〇年に約二五万四〇〇〇人にまで回復していくが、こうした短期間の急激な人口増加は、地域の活力を回復させると同時に多くの問題も生み出していた。
近年、地域社会における様々な問題に対処する主体として、NPOに代表される市民活動団体が、行政・民間(企業など)に続く第三の勢力としてその重要性を増してきている。三者それぞれの様々な立場や状況にある諸主体が意見を出し合い、協働しながら課題の解決を目指していくことになるが、こうした流れは以前から存在したわけではない。特に昭和の時代には市民が行政や政治に直接的に関与するチャンネルは、民生委員を通じたものや各種協議会などはあったものの、数として多くはなかった。そのため、市民ひとりひとりの意思や意見(特に異議申し立て)を表明する場・機会として住民運動が行われていた。
戦後の区内の市民生活に関わる主な問題、特に昭和の時代におけるものとしては、戦後の混乱期における市民生活の維持・発展に関するもの(特に社会的弱者である貧困層や高齢者・子どもにまつわる問題や青少年の育成)、戦後処理の一環としての土地の返還に関するもの、高度成長期に高層の建物が相次いで建築されたことによる日照権をめぐる問題、さらにバブル期には老朽化した地区を再開発する際に生じた諸問題(三田小山町の再開発など)を挙げることができる。この中でひとつだけ、土地の返還の事例について見てみよう。
六本木七丁目に「赤坂プレスセンター」という施設がある。現在は在日アメリカ陸軍基地管理本部が管理している同施設は、明治二二年(一八八九)に旧日本陸軍が駐屯地を設置し、戦後、アメリカ軍に接収された。現在も米軍基地として存在している。この基地に対しては、昭和四二年に区内の労働組合や平和団体などが中心となって基地撤去を求める運動が開始され、現在も継続して行われている。区側の対応としても、同年に区議会が「米軍ヘリポート撤去方に関する意見書」を防衛施設庁に提出したのを皮切りに、基地の撤去・返還、騒音に関する意見書を随時、アメリカ大使館、防衛省、東京都宛てに提出している。行政も、平成三年(一九九一)から「渉外知事会」(米軍基地が所在する一五都道府県で構成)を通して、基地の早期返還を国に求め続けている。赤坂プレスセンターの最大の問題点は、ヘリポートを有することによる事故発生の危険性と騒音の問題である。現在でも様々なチャンネルを通じて交渉が行われていることからわかるとおり、長く続く重要な問題として残されている。
このように、特に市民生活に関わる事柄については、行政だけでは対応が難しいことも少なくない。特に社会が多様化・複雑化している現代においては、市民ひとりひとりが当事者意識を持ち、地域社会に積極的にコミットしていくことが求められている。
それでは港区では、市民(区民)が実際にどのように地域社会の問題に関わってきたのか。コミュニティ形成を担う重要な役割をどのように果たしてきたのか。以下、順を追って見てみよう。  (松林秀樹)