昭和二〇年代後半は朝鮮戦争による特需とその反動としての不況の時代であったが、昭和三〇年代に入るといわゆる高度経済成長期に突入する。この時期はいわゆる三大都市圏への人口移動が起こったが、都心区においてはその伸びはさほどではなかった。人口収容力はこの時期には既に限界に達していたとされる。『新修港区史』によると、港区の人口は昭和二二年(一九四七)に一六万五〇〇〇人だったものが同二五年に二一万六〇〇〇人、同三〇年に二五万五〇〇〇人にまで達したが、高度経済成長期に入ると同三五年に二六万七〇〇〇人と増加率は鈍化し、同四〇年には二四万二〇〇〇人と減少に転じている。
それに対して、高度経済成長期は大規模建築物が急増した。昭和三〇年代前半は毎年次五〇件以下の件数であったものが、同三八年には二〇〇件を超えている。これは事務所・事業所などのオフィス需要、銀行、病院などの建設が多かったからである。また、このことが居住人口の鈍化ないし減少を推し進めたともいえる。