税外収入の状況

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次に、特別区税以外の主要な財源についてやや詳しくみていく。先に述べたように、昭和三〇年代においては都交付金およびその後継である都支出金が、特別区税に次いで重要な財源であった。そこで、各年度の決算報告書から昭和三〇年代における都交付金および都支出金を目的別にみてみると、同三〇年度においては「六・三制整備費交付金」が45・2%、「学校施設費交付金」が43・4%と、実に九割近くを教育関係の目的が占めていた。その後、昭和三一年度については資料の欠如のため不明であるが、同三二年度においては「六・三制整備費交付金」が41・6%、「危険校舎改修費交付金」が26・6%、同三三年度においては「学校施設費交付金」が39・6%、「危険校舎改修費交付金」が30・3%、「6・3制整備費交付金」が20・3%、同三四年度においては「校舎建設費交付金」が54・9%、「学校施設費交付金」が34・8%と、やはり大部分を教育関係の目的が占めていた。
続いて、都支出金となった昭和三五年度以降についてみてみると、「教育費補助金」が大部分を占めており、同三五年度においては70・5%、同三六年度においては61・1%、同三七年度においては86・1%、同三八年度においては82・4%という構成比であった。昭和三九年度以降については資料の都合上、目的別の内訳を明らかにすることができないが、一節でみた昭和二〇年代と同様に、三〇年代においても教育関係の補助金が、都および港区にとって重要なものであったことは明らかであろう。
昭和四〇年代における特別区税以外の歳入状況は、こちらも先にみたように、三〇年代とは大きく異なる様相を呈していたが、ここではまず、国庫支出金についてみていくこととしたい。表6-2-2-1に示されているように、昭和三〇年代において国庫支出金の占める割合は1%に満たないものであったが、同四〇年度には3・9%に、同四八年度には5・9%にまで上昇している。このように、昭和四〇年代において国庫支出金の占める割合が上昇することとなった背景は、都から特別区への事業の移管である(『新修港区史』一九七九)。すなわち、都に要請される行政の質・量が複雑かつ膨大になるにつれて、都は次第に特別区の事務の強化と都区における事務の再分配の必要性を感じ始めた。そして、都制調査会や地方制度調査会の答申を経て、昭和四〇年四月から、住民に身近な事務である(1)福祉事務所の設置、児童福祉施設等の設置管理、(2)保健所および優生保護相談所の施設管理、(3)法令によって市が処理することになっている事務(①生活保護、身体障害者、精神薄弱者その他の福祉事務、②伝染病、トラホーム、寄生虫予防等の事務、③土地区画整理、市街地改造事業、④防災建築街区造成事業、建築基準行政等の事務)が特別区に移管されることとなった(東京都財政史研究会編 一九七〇)。また、昭和四七・四八年度における国庫支出金の増加の背景には、老人医療費、生活保護費、児童手当等に対する国庫負担金の増加があった(『新修港区史』一九七九)。
次に、昭和四九年度において、特別区債の割合が前年度から大きく上昇して17・4%に達している点に触れておく。この背景には、この時期に起きた「戦後最大の不況」があった。すなわち、昭和四八年後半のオイルショックによって激しさを増したインフレーションは翌年に入っても衰えをみせず、政府はインフレを抑えるために総需要抑制策をとり続けた。そのため、昭和四九年後半からは景気の冷え込みによる不況の深刻化が進むこととなったが、インフレ傾向は続いたため「スタグフレーション」の状態となった(『新修港区史』 一九七九)。その結果、一方では不況により、昭和四九年度の特別区税の構成比が前年度から大きく低下するとともに、他方ではインフレにより、建設計画に必要な資材費等が高騰したために従前よりも多額の経費が必要となり、その増額分を起債で賄おうとしたことが、同年度における特別区債の高い割合をもたらすこととなったのである(港区議会史編さん委員会編 一九九三)。