昭和五〇年代前半は、前述のとおり不況による財源不足や借入金の返済など財政調整の財源は厳しいものであったが、昭和五〇年代半ばを過ぎると事情が変わりはじめる。港区を含む都心区を中心として生じた地価の上昇等を背景に、財政調整の財源となる税収は毎年10%以上の伸びを示していた。一方で、基準財政需要額の大きな要素の一つである職員の人件費は給与改定率が低いことから、税収の伸びに見合わない基準財政需要額の伸びとなった。また、物価上昇率も税収の伸びよりも緩やかなものであった。その結果として都区財政調整における財源が既存の基準財政需要額の合計を上回るという財源超過といえる状態となった。
財源超過が見込まれる直前の昭和五四年に内閣官房副長官や東京都副知事を経験した、鈴木俊一が都知事に当選した。鈴木知事がはじめに着手したのは都財政の立て直しであり、財政再建委員会を設置して財政再建策の検討をはじめた。これらの状況において都区間の財政関係も都の財政再建をめぐる一つの論点になっていく。特にこれまで都から区への既存の補助事業、区長委任事務としての交付金が都から区に対して行われていたが、それらを財政調整における基準財政需要額への算入を進めていくのである。また、都の事務の一部が移管され、建築確認の一部の区や、特定建築物監視の一部、一部都道の区への移管等が行われたが、それらの財源についても基準財政需要額に算入されていった。これらによって区側の権限拡大と共に財政負担関係の明確化が進められていった。
そのような状況下において、港区は昭和四九年から同五五年までは特別区財政調整交付金の交付区であったが、同五六年からはまた納付区に転じた。