昭和六〇年(一九八五)九月のプラザ合意は、安定成長期を終わらせて、「円高不況」をもたらし製造業は大きなダメージを受けた。この状況に対して、日本政府は公共投資を増やし金融緩和を進めるなど「内需拡大」路線を進めたため、資金が土地投機や株式に流れ込んだことによるバブル景気となり、昭和六一年から平成三年(一九九一)にかけてこの状況が続いた。そしてこの年にバブル景気は崩壊し、一転して不況が訪れる。結果からいえば、その後の日本社会はデフレーションが続く状況に陥ることになる。このことは特別区民税の構造上、区の歳入が増えないあるいは減る時代になったことを意味し、歳出を見直さざるを得なくなったことをも意味する。基本構想・基本計画・実施計画・予算という総合化・体系化は定着したものの、新たに厳しい財政への対応として行政改革や財政構造改革が課題となった。
また、この時期において特筆すべきことは清掃事業移管が実現したことである。最初の地方自治法改正以降、特別区は公選制の復活、事務権限と課税権の拡大、人事権の確立を目指してそれを実現してきたが、清掃事業は特別区を東京都の内部的団体として位置付け続けるという意味で残された大きな争点であった。この問題の論点は都と特別区の法的な役割分担の明確化であり、平成一二年四月施行の改正地方自治法により移管が実現した。また同法上も、基礎的自治体の位置付けを獲得した。