アジア・太平洋戦争での敗戦は、わが国の都市に致命的な打撃を与えた。東京は激しい空襲を受け、工場や商店・住宅はもちろんのこと、あらゆる施設が甚大な損害を受けた。特に被害が大きかったのは、現在「東京大空襲」と呼ばれる昭和二〇年(一九四五)三月一〇日と、「東京山の手大空襲」と呼ばれる同年五月二四日から二五日にかけての空襲である。東京大空襲では当時の赤坂区檜町・青山一帯・麻布区飯倉から三河台町にかけての地域が大きな被害を受け、当時の芝・麻布・赤坂の三区では四〇〇〇戸以上が焼失した。また、東京山の手大空襲では麻布区・赤坂区の大半が被害に遭い、三区で三万戸以上の建物が焼失した。このような事態を受けて、港区の戦後のまちづくりは焼け跡から始まったといえる。