空襲による都市機能の破壊は東京都内の商業機能にも壊滅的な打撃を与えた。終戦直後の混乱の中で新たな商業の中心機能を担う存在として、各地に闇市と呼ばれる露天商人による青空市場・マーケットが台頭した。当時の東京は慢性的に食糧不足に悩まされており、地方で仕入れた商品がこれらの露天で販売されていた。その多くは当初は不法占拠であったが、人々の生命の維持などの観点から考慮するとやむを得ないものであったともいえる。これらの多くは交通の要衝となる新橋・池袋・新宿・渋谷などに成立したが、その最大規模といわれていた闇市は港区内の新橋駅前の現在のニュー新橋ビル周辺である。同地域は戦時中に空襲の被害を防ぐために建物疎開が行われたことにより、広い空き地が広がっていたこと、新橋駅という鉄道網上重要な駅の目前であったことがその理由であったといえる。かつてこの地に住み、少年時代を過ごした高見順は、その著『敗戦日記』のなかで闇市について以下のように記している。
十一月九日
新橋で降りて、かねて噂の高い露店の「闇市場」をのぞいて見た。もとは、明治製菓と工業会館の裏の、強制疎開跡の広場にあったのだが、(あった?自然にできてきたのである)二、三日前から、反対側のもとの「処女林」、その横のすし屋横町の跡に移った。駅のホームから見おろすと、人がうようよとひしめいていて、一種の奇観を呈している。敗戦日本の新風景、――昔はなかった風景である。
駅を出ると、その街路に面したところに、靴直しがずらりと並んでいる。それが一線を劃していて、その背後の広場が、「闇市場」になっている。すでに顔役ができていて(顔役は復員兵士とのこと)場代を取り、値段が法外に高いと、店開きを禁じたりするとか。子分を数多従えているとのことだから、子分を使って場所の整理をしたらよさそうだと思うが、雑然と混然と、闇屋がたむろしている。
「三つで五円」
闇屋の声に、のぞいて見ると、うどん粉(?)をオムレツ型に焼いたものを売っている。ふくらんだ中身には何が入っているのか。隣りでは、ふかしイモ、これも一袋五円。紙袋をちゃんと用意しているが、風呂敷いっぱいくらいしかイモは持って来ていない。女の子二人が恥かしそうに、何か売っている。
いずれも食い物だ。「三把十円」と言っているのをのぞくと、小魚を藁にはさんで乾したもの。十円はいかにも高いので、売れない。風呂敷一つさげて、商売に来ているのである。「店開き」とさっき書いたが、店の感じではない。浅草の食い物屋は、ちゃんと屋台を出しているが、ここはただ風呂敷、カバンなどをひろげて売っているだけである。そのうち「店」になるだろうが。
前述の如く「闇市場」はもとは反対側にあった。なぜ、そこに、「闇市場」が自ずと形成されて行ったか。思うに、明治製菓の筋向いに、外食券食堂が二軒あった。そのせいに違いない。食堂の前には食事頃になると行列ができた。その行列相手に、物を売る闇屋がまず現われた。また、外食券を売る闇屋が徘徊した。とにかく終戦直後(いや、前からそうだが)外食券食堂を中心として(前述の食堂のほか、もう一軒先きにあった。)まず人だかりが形成され、そこへ行くと、小さな梨五つばかりで何円(五円だか十円だか忘れた)、高いけれどとにかく買えるというので、人が行ってみるようになった。外食券の人々を相手に初めは売っていたのだが、そうしてだんだん一般の買い手が現われる。買い手が現われると、売り手の方でも集まってくる。それがだんだんと目立って、明菓の裏の広場に移動した。いつかそこに「闇市場」ができた(闇とはいいながら公然と売る)という順序である。(略)
このような闇市の権利関係を整理することは非常に難しかったといえる。空襲等で土地の権利に関する行政文書が消失したり、疎開などで不在となった空き地に知らぬ間に誰かが住んでいたりなど、終戦直後の混乱期ならではともいえることが多く発生していた。また、食糧事情から闇市が当時の人々の生活を支えていたことは間違いなく、行政からも事実上黙認されており、不法占拠といえども自治体の首長が許可を出すなどによって一部権利が認められていた側面もあるため、簡単に整理し、再開発をすることは難しかったといえる。
これらは当初は露天商の集まりとしての市場だったが、徐々に木造の建築物が建設されるなど、その権利が固定化されるような形で成長し、ただ露天商が立ち退けばよいというような状況ではなくなりつつあった。
一方で、闇市を整理し復興することは東京都からの命令でもあり、昭和二〇年一〇月に芝区長に就任した井出光治(後の港区長)は新橋の整理に手を付けている。『新修港区史』において井出は次のように振り返っていたと述べられている。
新橋の整理に手をかけたんですが、なにしろ二十数組のヤクザを相手なもんですから、いつピストルでやられるかわからないということで、そのころの二ヵ月ばかり、総務課長と土木課長と三人で、毎晩、米と味噌と酒をぶらさげて、焼跡の家を転々と泊まり歩きながら身を隠していたことがありました。
そんなときでした。アメリカ兵にピストルをつきつけられ、顔をなぐられたりして、一週間ほど寝ていたことがあったのです。のちに殺されましたが、新橋のヤクザの親分の松田義一(昭和二十一年六月十一日に殺される)が、〝区長さん、アメリカ兵にやられたんだって。この馬肉を貼ると早く治りますよ〟といって見舞いにきたことがあったのも、そのときでした。
この新橋駅前の闇市は当時の井出光治区長により昭和二一年にはマーケットとして木造建築の市場として整備されることが許可され、「新生マーケット」と名付けられた。この「マーケット」という用語は、当時は露天商が集積した青空市場と異なり、商業施設として整備された市場に対して使用された。このような形で、闇市はマーケットに置き換わっていき、闇市は物理的に消滅し終焉していくことになる。昭和二〇年一二月三〇日に決定された戦災復興計画基本指針に基づいて実施された戦災復興土地区画整理事業、同二七年五月に成立した「防災建築街区造成法」に基づく防災建築街区造成事業により、大規模駅周辺などに存在した闇市もその姿を大きく変えることになったが、この過程で発生した闇市以来の飲み屋街などの建物は高度経済成長期まで存続した。新生マーケットを事例とすると、それは昭和四六年のニュー新橋ビル建設まで残存していたといえる。