オリンピックは、東京の都市の形をも変貌させていった。オリンピックによる都市整備は特に道路整備に重点がおかれ、まちづくりという視点では、青山通りの拡幅など、密集市街地の街路築造事業などが代表的である。これらは、単に道路の拡幅による利便性の向上という点だけで語られるものではない。住民にとっては立ち退きにより、住み慣れた土地・商店街や店舗、地縁など様々なものを失うことにつながった。そのため、転居のための代替地や公営住宅などの斡旋、転廃業等に伴う貸付金など、様々な取組が必要となった。建物の高層化や街並みの美化につながり、都市としての魅力は大きく高まった。さらに昭和三九年九月には東京モノレールの開業により、浜松町はこれまで竹芝桟橋が担っていた東京島嶼(しょ)部とのハブとしての役割に加え、羽田空港の表玄関としての役割を担うことにもつながった。
昭和三四年四月には「首都高速道路公団法」が公布され、都市内の短距離の交通・輸送の効率化を図るための自動車専用道路の整備が具体化してきた。昭和三七年二月から供用を開始した首都高速道路一号線を皮切りに、高速道路網の整備も進行した。首都高速道路は既存街路や河川敷地などの公共用地を用地とし、高架や埋め立てによって整備され、一般街路とは分離された。
オリンピック開催に合わせた交通整備に連動して、路面電車の廃止も進行する。昭和三八年六月、政府から都に対して、オリンピック道路計画推進のため都電を撤去するよう申し入れがなされ、同年一〇月に青山線を含む青山一丁目―赤坂見附―三宅坂間を皮切りに多くの路線が廃止された。
都電の廃止に伴い、地下鉄網が整備されていくことになる。帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ株式会社)日比谷線が昭和三九年八月二九日に全線開業、都営浅草線は昭和三八年に新橋駅へ乗り入れ、翌年一〇月に新橋駅―大門駅間の延伸がなされた。
このように、オリンピックの開催は、道路や公共交通など交通網の整備が劇的に進むきっかけとなった。また、道路の拡幅などにより、住民の立ち退き問題など、まちづくりに関わる多くの困難を乗り越えた結果であるともいえる。 (中村 仁)
図7-2-1 品川駅前を通る最後の都電(昭和42年)