〔第三節 アフターオリンピック(昭和四〇~五〇年)〕

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昭和二〇年代の廃墟からの復興、昭和三〇年代のオリンピックを契機とした再開発によって、港区の市街地はゼロから再建したといえる。昭和四〇年代は再開発が進み、さらなる発展を遂げた時代である。オリンピック翌年の不況対策のための建設国債発行などを契機とした、昭和四〇年(一九六五)から同四五年七月まで続いたいざなぎ景気は日本の経済はもちろんのこと、都市の再開発にも大きく貢献した。一方、昭和四六年八月一五日にニクソン大統領が金とドルの交換の一時停止を発表したニクソンショック、同年八月二七日に固定相場制から変動相場制への移行、昭和四八年一〇月から翌年八月まで続いた第一次オイルショックなど、経済状態はその後悪化していく。そのような中で、市街地は大きな変化をもたらされることになる。新橋の闇市は木造二階建てのマーケットを経て高層ビルとなるなど、この時代の経済成長は街の様相も大きく変貌させたといえる。とりわけ、東京タワーと高速道路は当時の日本の発展と成長を象徴していた。
昭和四五年三月に建設された世界貿易センタービルは昭和の港区を代表する超高層建築である。かつて都電の車庫だったこの地は敗戦後進駐軍に接収され倉庫街となっていた。占領の終了に伴い再び都電の車庫となっていたが、都電の廃止とともにこの地は霞が関ビルに続く、東京における超高層ビル化のさきがけとなった。地上四〇階、高さ152mの同ビルは、昭和四六年の新宿の京王プラザホテル開業まで日本一の高さのビルであった。国鉄浜松町駅に隣接し、モノレールが乗り入れ、バスターミナルや公共駐車場を有する多目的な複合建築物として、ビジネスビルを超えた地域の再開発の拠点となった。日本を代表する企業の出資による開発であった同ビルは特筆すべき再開発であった一方、近隣地域再開発などはこれに続く再開発とはならなかった。
新橋駅前もオリンピック終了後に新たな変化がもたらされた。東口地区は昭和四〇年一月から市街地改造事業の工事が着工し、翌年八月に新橋駅前ビル一号館(地下四階地上九階)・二号館(地下三階地上九階)が竣工した。立ち退きなどの問題解決が遅れた西口地区は昭和四四年二月からニュー新橋ビル(地下四階地上一一階)の工事が始まり、昭和四六年二月に竣工した。これらのビルはオフィスと大衆的な飲食店だけでなく、地下駐車場を備え、東口地区には昭和四七年三月に東口広場地下駐車場も完成し、地下街に地下鉄駅も直結するなど機能的な街の様相となった。
また、昭和四七年一〇月一四日には新橋駅(汐留駅)から一番列車が出発した鉄道発足一〇〇周年を記念し、日本国有鉄道の協力を得て新橋駅西口広場にSLが設置された。西口広場はSL広場と呼ばれるようになり、SLのライトアップや広場でのイベントの開催などで知名度も向上し、新橋を代表するランドマークの一つとなっている。   (中村 仁)

図7-3-1 設置当時のSL