昭和五〇年の基本構想で「住宅地として生活環境を整備しながら再開発する」とされた芝浦港南地区については、前述したように芝浦港南地域整備構想懇談会を設置し、新たな居住領域の創出と調和のあるまちの実現のための整備構想の検討を依頼、翌年報告書をまとめた。これを受け、区は昭和六〇年一月「港区芝浦港南地域整備構想」を策定した。この報告書は、その後様々な地域で策定されるまちづくりの方針、計画、ガイドライン等の最初のものであった。また、対象地域は現在の芝浦港南地区総合支所の管轄区域に海岸一丁目を加えた約500haで、今日まで区が取り組んできた様々なまちづくり区域の中で最大のものでもある。
整備構想を実現していくため、昭和六二年九月には「港区芝浦港南地域整備基本計画」が策定された。二〇人を超える策定委員には学識経験者だけでなく、当時の建設省、国土庁、東京都都市計画局、国鉄、住宅都市整備公団等の関係者が名を連ねた。整備構想を引き継ぎ、計画区域の中で重点的に整備・誘導していく地区として、芝浦アイランド・港南リバーサイド・重箱堀ウォーターフロントの三つのアクションエリアを設定した。
最重点は、芝浦二~四丁目の芝浦アイランドアクションエリア約52 haである。広大な東京都交通局の都電修理工場や大規模な民間工場も多く、土地利用の転換が見込まれたからである。田町駅東口の駅前広場の整備と併せて、駅前から埠頭(ふとう)までの道路を軸とし、運河を生かしたアメニティあふれる都心型住宅と業務・商業施設の複合市街地の創出を基本方針とした。整備手法として、国の補助事業である特定住宅市街地総合整備促進事業(現在の住宅市街地総合整備事業)を活用することとし、地権者との協議会を組織して、各地権者の計画と調整しながらガイドプランを作成し、容積率や規制緩和等に柔軟に対応し、整備を進めることとした。
昭和六一年四月、芝浦四丁目を中心とする芝浦・港南地区約79 haが国の補助事業である特定住宅市街地総合整備促進事業地区として採択された。策定主体は東京都であった。翌六二年七月、整備計画が国に承認された。地区整備の基本方針は、都市型住宅の大量建設による定住人口回復、調和のとれた市街地環境の整備・改善とそれに必要な公共公益施設の整備であった。住宅建設計画は一四〇〇戸、建設施工者は住宅都市整備公団、東京都住宅供給公社、東京都および民間開発者であった。
このほか、区では昭和六〇年、都心圏の既成市街地等における環境の整備改善に役立つ敷地内空地を創出すると同時に市街地住宅の供給の促進、良質な住宅をストックの形成に役立てることを目的とし、「港区市街地住宅総合設計許可要綱」を制定した。この要綱は、一定規模以上の敷地面積および一定割合以上の空地を持つ建築計画について、その容積率や形態の制限を緩和するというものであった。
昭和六三年に策定した「港区街づくりマスタープラン」によると、山の手の第二種住居専用地域部分は、概ね住宅用途に特化され、緑に恵まれた良好な居住環境を備えていた。戸建住宅からマンションへの建て替えも進んでいたが、戸建住宅の中には、敷地は比較的狭く、道路への接道条件が悪いため、有効な建て替えが困難な部分もあった。このことが、世帯分離による人口減少の一因にもなっていた。定住人口の維持、あるいは増加を図るためには、必要な部分での質の高い共同住宅の供給を含め、良好な住宅地環境の保全、形成を行っていく必要があった。
他方で商業地および近隣商業地域、住宅地域等に指定される下町は、港区民の過半が居住している部分であったが、継続的な人口減少が進んでいた。定住人口を確保するには、山の手の住宅地ばかりでなく、下町地域での住宅の維持が不可欠であった。民間開発の適切な誘導とともに、住民を中心とした建物の更新、共同化の中で、住む環境を創り出していくことが望まれた。
さらに、主に台地部の間の小さな谷の部分には、狭い道路と古い木造住宅が集積し、庶民的な住宅地を形成しているが、住環境や防災の面で問題がある地区が存在した。これらの地区では、既存の居住人口とコミュニティを維持しながら、住宅の不燃化、共同化を進めて、住環境や防災面の改善を行う必要があった。
そこで区では、平成元年に定住人口確保対策本部を設置し、住宅施策の推進を図ったが、その後一九九〇年代に入っても、定住人口の著しい減少に直面していたことから、区はそれを打開するための方針を続けた。
平成三年三月には、やわらかな生活都心の実現を図ることを目的として、「港区定住まちづくり条例」を制定した。この条例では、区民が健康で文化的な生活を営み、かつ住み続けられるために、住宅を確保し、住環境の維持や向上を図ることとした、住宅、住環境に関する基本条例として、特別区内では、世田谷区、中央区に次いで三番目の条例となった。条例では、付属機関として学識経験者による「港区定住まちづくり審議会」が設置され、区長は審議会の意見を聴き、住宅に関する水準を定め、開発事業者はこの水準を満たすよう努めることとされた。
さらに、平成五年には「港区住宅基本計画」を策定した。計画の策定の背景の一つは、平均的な中堅勤労者が区内に住宅を取得する条件が相変わらず厳しい中、区民は住居費の負担の増大に直面し、他方で、比較的高く維持されていた居住水準も徐々に低下する中で、区民の間に、今後とも港区内に住み続けられるか大きな不安が広がっていたことがあった。また、人口や住宅の減少により、義務教育施設等の行政投資が有効に活用されず、生活関連施設の衰退により、地域の活力の低下を招き、基礎的自治体としての存続に関わる危機に直面していたことがあった。加えて、多様な業務の集積により、区は二四時間都市の性格を強め、若年層単身勤労者や外国人の増大、女性や高齢者の社会進出の拡大等による影響で職住近接の要請が強まる条件も出てきており、新たな視点からの住宅の需要も強まってきていた。同計画では、こうした背景と「定住人口の確保」を区政の最重要課題として位置付け取り組んできたことを踏まえ、さらに新たな「生活都心」を目指して、二一世紀初頭までに必要な住宅整備のための施策展開の方向性を示した。
また、建築物に対する防災対策として、平成七年の阪神・淡路大震災を受け、同八年に港区耐震診断助成制度を創設し、建築物の安全性に対する意識を啓発し、強いまちづくりを目指した。
公団公営等の公的住宅には、区民の約8%が居住していた。都心の地価高騰の中で住宅を確保するための貴重な資産であった。既存の公的住宅の更新による高度利用を促進するとともに、湾岸部や国公有地等での大規模開発に併せて、新たな公的住宅の導入を図る必要があった。また、東京都から概ね一〇〇戸程度の小規模の都営住宅が二三区に移管されたことから、区営住宅の運営は平成六年から開始した。平成七年には、財団法人港区住宅公社が設立され、区民向け住宅の管理を開始した。区民向け住宅の建設については、家賃等住居費の高負担に悩む中堅ファミリー層を中心に供給を図り、平成七年に区民住宅、同八年に特定公共賃貸住宅の供給を開始した。
区は、住宅の供給のほか、平成四年には民間家賃助成制度による家賃支援を開始した。こうした支援を通じて居住しやすい状況を作っていた。
さらに、新たな住宅供給の誘致を図る方法として、付置住宅制度の活用や大規模開発等における住宅の確保を図るとともに、区有地の有効利用、国公有地・遊休地等の活用に対して、国・東京都等に要請し、住宅の供給を行った。加えて、計画的に住宅を確保しやすい方策として、中高層住居専用地区の指定、共同化の促進、一団地の総合設計制度等の活用及び定期借地権の活用等、多様な方策によって住宅供給の誘導を行った。
また、平成八年の「港区街づくりマスタープラン」では、住み続けることができる安全で快適なまちを実現するため、環境変化を踏まえ、定住人口の回復の視点を一層強めた計画とした。この計画では、地域の特性に対応した定住まちづくりや、多様な居住者のライフスタイルに対応した住宅施策の展開を進め、高齢者、障害者、子ども等が安心して暮らせるようなバリアフリー住宅等の福祉の視点からの住宅・住環境づくりや、居住者と就業者、来街者、外国人等との交流、共存できることに配慮した生活環境の整備を進めて、定住基盤を確保するという目標を掲げた。