赤坂・青山・六本木・三田周辺

161 ~ 162 / 407ページ
赤坂・青山・六本木・三田周辺は、昔からの優れた環境を持つ山の手住宅地に、先端的な都市活動施設等が立地し、商業・業務機能と住機能の共存する市街地が形成されていた。また、赤坂・青山・六本木等は、東京を代表する先端的な情報、ファッション、レジャー・文化等の都市機能の拠点があった。
一九八〇年代、この地域では赤坂・六本木地区市街地再開発事業(アークヒルズ)として再開発が行われた。昭和五七年に再開発事業が東京都から認可され、同六一年に完成した。この事業は、区内初の第一種市街地再開発事業であり、区域面積5・6ha、延べ床面積約36万㎡、地権者数約二〇〇人と、当時の民間再開発において最大規模であった。開発前は、高低差が大きく複雑な地形に老朽化した木造家屋が密集し、街路整備が不十分で地区内の交通アクセス性が弱く、防災上の課題も抱えていた。街区再編や都市基盤の整備により、新しい都市文化の創造、職住近接、地域の活性化を図り、交通円滑性、住環境、防災性を飛躍的に向上させた。
アークヒルズを含む「六本木・虎ノ門地区」(外堀通り・桜田通り・外苑東通り・麻布通り・六本木通りに囲まれた約75 haの地区)は、江戸時代から町割りを引き継いでいるため、明快な道路ネットワークがなく、地下鉄との連絡性が弱いなど都市基盤が脆弱(ぜいじゃく)であった。加えて個別開発が無秩序に進行することによって、歴史的要素、地形、環境、景観面での問題が生じることを懸念した。そこで、港区では、平成元年に「六本木・虎ノ門地区地区更新計画(案)」を策定した。
一九九〇年代、赤坂・青山・六本木・三田周辺は人口減少が著しく、昼夜間人口比の差が比較的高くなっていた。また、住宅地への業務地化の進行が目立った地域でもあった。
この地域は、赤坂、青山、六本木等の幹線道路沿道と周辺では創造的な都市活動の拠点が形成され、その内側が住宅地になっていた。そこで、港区は幹線道路に囲まれた街区内部の住宅地を保全しつつ、定住基盤の維持を目指して、「定住維持ゾーン」と位置付けた。土地利用では、大街区の構成を生かして、幹線道路、沿道での商業・業務機能と街区内の住機能との共存を図り、街区内の住宅地への無秩序な業務地化を抑制することとした。
六本木・虎ノ門地区内での開発計画の進展も踏まえ、「六本木・虎ノ門地区地区更新計画(案)」は平成八年に「六本木・虎ノ門地区市街地総合再生計画(素案)」として策定(平成一二年に部分的な計画修正を実施)し、開発プロジェクトを計画的に誘導することで、市街地環境の整備や都市機能の拡充を図ってきた。
道路・交通については、幹線道路は整備されており、大街区が多いが、一部細街路地区もあった。また、公共交通機関は概ね充足していた。
景観と環境については、青山墓地、赤坂御用地をはじめとして、大規模な緑地が多く地形的にも台地と低地に分かれ坂道が多かった。そこで、これらの緑や地形の特性を生かして大規模開発とも合わせ緑の拠点と骨組みの形成を図ることとした。また、台地の谷間部分に分布する密集した木造住宅市街地や狭あい道路が多いことから、防災まちづくりの方針として、こうした地区での防災性の向上を図ることとした。