多様な公害への対応

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敗戦により焦土となった国土の復興を目指した高度経済成長期は、生活環境よりも経済発展が優先された時代であった。目覚ましい速度で経済が成長した反面、市民の生活環境は現在とは比べ物にならないほど悪化し、大気汚染・水質汚濁・騒音など、街には様々な公害が蔓延していた。なかでも昭和三〇年代に発生したイタイイタイ病・水俣病・四日市ぜんそく・新潟水俣病は、のちに「四大公害」と呼ばれ、数多くの公害被害の中でも特に大きな被害をもたらしたことで知られている(石井 二〇〇二)。
昭和三〇年代から四〇年代にかけての高度経済成長に伴い公害の影響は大きくなり、昭和四二年(一九六七)には「公害対策基本法」、翌四三年には「大気汚染防止法」と「騒音規制法」が制定されるなど、国も対策を講じるようになった。そして、公害問題に対するさらなる社会的関心の高まりを受け、昭和四五年には公害対策基本法が改正され、翌四六年に環境庁が設置された(加瀬野 一九九四)。
港区においても、国の騒音規制法制定と、都の「工場公害防止条例」(昭和四四年度中に「公害防止条例」に統合)の区長への委任に対応するため、昭和四四年四月公害課が発足した。港区における本格的な公害行政のはじまりである。昭和四九年には「公害健康被害補償法」が施行され、港区は第一種地域(大気汚染地域)に指定された。港区が第一種地域に指定されたことを受けて、昭和五〇年には公害病補償課が新設され、本格的な公害病補償事業が開始された(『新修港区史』一九七九)。
港区における当時の公害で最も問題視されていたのは騒音である。騒音の原因の大半は車の交通によるものであり、排出ガスも含めた交通公害が深刻であった(同上)。昭和五一年七月に実施された区民世論調査によると、「区政は今後どのような施策に力を注ぐべきか」という質問に対して、公害対策を一位に挙げた回答者が全体の21・4%を占めている(「第一回 港区民世論調査」)。区民にとって公害問題は解決すべき最優先課題であったことがうかがえる。
公害健康被害補償法による第一種地域への指定や、こうした区民の声を踏まえて、昭和五〇年代以降、騒音、大気汚染や水質汚濁など、多様な公害に対応する事業のほか、お台場や古川の水質改善など、住みよい環境・街を実現するための取組がなされていくのである。  (小田勇樹)